TAKARABE
JOURNAL本質を捉える視点

ここは中国ではない。全体主義にはなりたくない。

私権制限を伴う緊急事態宣言はくれぐれも慎重にやれと言っていた連中が、4月7日に発令するや「遅気に失した」とケチをつける。そればかりか、厳しい外出禁止令を出している欧米と比べて「自粛要請だけで大丈夫か」とまで言い出す。危ない奴等だ。

日本には太平洋戦争当時の国家的トラウマがある。国家総動員法で私権を徹底的に制限し、全体主義に走った悪夢はどこへいってしまったのか。

個人の行動制限を最小限にとどめる日本の「緊急事態宣言」は過去の深い過ちと反省の所産だ。「人との接触を8割減らしてほしい」と明言した安倍首相の会見は、長い在任期間のなかで飛びぬけて秀逸だった。全体主義には戻らない覚悟のなかで出来る最大限の対策が「接触8割限」の行動変容を国民にお願いすることだった。

こんな反論があるかもしれない。

「いまはコロナとの闘いであって太平洋戦争の話を持ち出すのはお門違いだ」

お門違いではない。国家総動員法制定のプロセスには、マスコミが交戦意欲を書き立て、それに乗せられた日本国民の交戦意欲の高まりがあった。あれはあれ、これはこれではない。フランスのマクロン大統領は平然とコロナとの闘いを「戦争」と呼び、罰則付きの外出禁止令をだしているが、日本では間違っても「戦争」というたとえは使わないし、私権制限の先には全体主義がちらつくのだ。

マスコミは間違っても「自粛だけでコロナに勝てるのか」なんて言ってはいけない。外出禁止を煽る行為はかつてきた道だ。

じつは感染爆発したイタリアや強権発動のフランスと国境を接しているスイスも外出禁止をせず、国民の良識にゆだねている。その対応の緩さに対して国内外から批判が噴出している。

「政府の措置はおそらくもう少し厳しくなるだろ。だが外出禁止が最終目的ではない」

スイス政府はスイス人の自律心を信頼しているのだ。コロナ感染の政府のスポークスマンはこう明言した。

「我々が取る措置は我々の文化、社会、そして民主主義と調和していなければならない。ここは中国ではない。全体主義にはなりたくない」

そう、日本。中国ではないのだ。