TAKARABE
JOURNAL本質を捉える視点

大村愛知県知事 看板倒れの「表現の自由」

開催からわずか3日で中止に追い込まれたあいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」。主催者である愛知県の大村知事が追い込まれています。昭和天皇の肖像を燃やし踏みつける作品(敢えてそう言います)や韓国の慰安婦像(作品名は少女像)などの展示に対して名古屋の河村市長が「日本人の心を逆なでする。そんなものに国民の税金を使うのはいかがなものか」とテレビの取材で批判。これに対して大村知事は「公権力による検閲にあたる。憲法違反に問われる発言だ」と反論する一方、市民からの批判、脅迫が殺到しており来場者の安全を考慮したという理由で企画展を中止にしました。

展示そのものに対しては何の問題もないという大村発言に今度は大阪府の吉村知事がTwitterで噛みつきました。

「愛知県知事は今回の展示を知ってやったのだろう。公共たる愛知県が主催、知事が会長となり、公権力を行使して、展示した。一方的に反日政治活動を後押し、慰安婦像の設置、天皇の写真をバーナーで焼き、踏みつけ。公共として責任問題にならない方がおかしい」

すると大村知事がテレビ取材で猛反発。

「(吉村知事は)哀れだなと思いますね。この程度のレベルの人が大阪の代表なのかと驚きました。憲法21条をまったく理解していない」

これに対して吉村知事も「大村知事、哀れな吉村です」とTwitterで即反応しました。

「大村知事がいう『表現の自由』を学びたいので、展示を再開して下さい。公金、公共施設、公務員、公権力を使って愛知県が展示した、慰安婦像、天皇の写真を焼き踏みつけ、特攻隊員の日の丸寄せ書を使った『間抜けな日本人の墓』等々。知る権利のためフルオープンでお願いします。」

きわめて正論ですね。

それにしてもこの問題は議論百出、甲論乙駁。いろんな人がいろんな事を言っていますが「表現の不自由展」中止を憲法21条違反だとの批判は思考停止の偏向報道です。8月11日放送の「サンデーモーニング」(TBS系列)はひどかったですね。この番組は1990年代半ばに私が初めてテレビのコメンテーターをした思い出の番組で、当時のプロデューサーはバランスのとれた番組作りをしていましたが、その後しだいに左翼色を強め、いまでは反日番組と化しています。

そこで展開された議論は憲法21条に規定された「表現の自由」とは何かです。あいちトリエンナーレでいったい何が起こって企画展が中止になったのかという事実認定は何もせず、いきなり「表現の自由」がいま危機にさらされているという議論に落とし込んでしまう。

個別具体的な事例に対して、その詳細を検証することなく、いきなり一般論で批判するやり口はいただけません。論理のすり替えです。韓国のムンジェイン大統領の手法ですね。韓国をホワイト国から外した日本に対して「北朝鮮と一緒になり日本に追いつく」というのと同じ。反日を強調しながら南北統一という持論を展開する荒唐無稽な主張です。

 

首都大学東京の宮台真司教授が朝日新聞デジタルで展開した論考が参考になります。

「トリエンナーレは自治体主催の地域芸術祭で、住民や政治家が文句をつけ得るパブリックアートの構図で、同じ問題が反復する。住民や政治家は日常になじむものを求め、『心に傷をつける』非日常的作品には抗議しがち。アートとパブリックのねじれです。矛盾する二側面を両立させるには工夫が必要ですが、今回はなかった。『表現の不自由展』なのに肝心のエロ・グロ表現が入らず、『看板に偽りあり』です。特定の政治的価値に沿う作品ばかり。政治的価値になびけば、社会の日常に媚びたパブリックアートに堕する。政治的文脈など流転します。『社会の外』を示すから、政治的対立を超えた衝撃で人をつなげるのです。政治的な文脈を利用してもいいけれど、そこに埋没したらアートではない。トリエンナーレ実行委も津田氏も、アートの伝統と、それに由来するパブリックアートの困難に無知だったようです」

そもそもアートとパブリックはねじれの関係にある。住民と政治家は日常になじむものを求めたがり、「心に傷をつける」非日常的なアート作品に抗議しがちだといいます。

宮台氏が注目したポイントは「表現の不自由展」なのにそこにエログロ表現がなかった点でした。エロティシズムやグロテスクな作品は表現の自由の外に追いやられる典型です。こうした作品が一点もなく特定の政治的価値に沿うものばかりを展示したのは「看板に偽りあり」だという指摘は至言です。

大村知事は河村名古屋市長に対して「憲法違反」の嫌疑をかけました。そして誰もが「表現の自由」の守護者は大村知事であり、その自由を侵害者が河村市長という構図になっていますが、この企画展を中止にしたのはだれでしょうか。他でもない、大村知事自身です。それを忘れてはいけません。市民からの批判が多数こようが、政治家(河村市長)の反対があろうが、表現の自由の体現者を自任している大村知事は断固たる姿勢で「表現の不自由展」の継続を守らなくては言行不一致もいいところです。百歩譲って来場者の安全に配慮して中止したのであれば、必要な措置を講じて即刻再開すべきでしょう。

でも彼は再開には一切触れません。

彼自身がこんなひどい企画展を続けていたら地盤である保守層の離反を招くことが必至で、1日も早く市民の目に触れないよう抹殺したいと考えたからではないでしょうか。もしそんな理解が邪推であるというなら、大村知事は保守の仮面をかぶった反日思想の持主ということになります。あるいは左翼思想のジャーナリストであり、あいちトリエンナーレの芸術監督である津田大介氏の炎上商法にまんまと嵌められた間抜けなのか。

いずれにしても大村知事は吉村大阪府知事に対して憲法21条もしらぬ哀れな知事とまで公共の電波で言い放ち、吉村知事から「表現の自由」を学びたいので展示を再開してくれと挑発されているのです。エログロ表現は一切なく、慰安婦像、天皇の写真を焼き踏みつけ、特攻隊員の日の丸寄せ書を使った「間抜けな日本人の墓」など特定の政治的価値に沿うものばかりでも、愛知県の「表現の不自由展」を、身体をはって守るべきでしょう。それが出来ないのであれば金輪際「憲法21条」など口にしてはなりません。