TAKARABE
JOURNAL本質を捉える視点

永世中立国スイスを揺るがすロシアの蛮行

「スイスは長い伝統である中立性を捨て去ろうとしている」

スイスが対ロシア制裁に加わる決定をしたことを米紙ニューヨーク・タイムズはこう伝えました。完全な誤報です。いつもながら米国一のクオリティーペーパーは底が浅い。物事の本質に迫る思慮に欠け、自らのリベラルな思想に都合よく記事を書いてしまいます。

これに対してスイスのドイツ語圏内で読まれている3月2日付けの日刊紙ターゲス・アンツァイガー(出典swissinfo.ch)に掲載された記事はこう反論しました。

「スイスは軍事的に中立を保っている。ニューヨーク・タイムズや(野党の)国民党の論評は誤解を招く。連邦政府の決定後もスイスは軍事的に中立のままだ。中立国が負う国際法上の義務はわずかしかない。その義務とは、兵士の派遣や武器の供給を通して当事国を支援してはならないこと。いかなる紛争当事国に対しても自国の領土を利用させてはならないこと。そして、いかなる軍事同盟にも参加してはならないことだ。これらは今後もスイスに適用される」

つまりスイスは「中立性を捨て去ろう」とはしていない。明確な主張です。

日本人は永世中立国というとスイスばかりを思い浮かべてしまいますが、ヨーロッパにはスウェーデンやオーストリアなど中立国は他にもあります。ただし中立性の意味するところは国によって違います。

スウェーデンは現在、ウクライナに武器も供給していますし、NATO(北大西洋条約機構)加盟を望んでもいます。一方スイスはそのどちらも否定しています。ただしスイスの中立性はプーチンの戦争によって大きな変化をきたしています。

「(スイス)連邦内閣は、従来の政策を急進的な方向に転換している。連邦内閣の決定は中立法には違反しないが、中立性に広い意味で影響を与えている。そこには『紛争時に中立を保ちたい国は一般的に、有事の際にも他国から中立だと信頼されるよう振る舞う』という基本的な考えがある。スイスはさらに、紛争時に仲介役が務められるよう政治的対応を取っていく考えだ」

つまり中立国は中立性を自分で主張するだけでは不十分で、他国からその中立性を信頼されてこそ、真の中立国になれるというのです。スウェーデンは、たしかにかつては中立でした。しかし現在はNATOのパートナーシップ国となり、将来のNATO加盟を希望しています。そればかりかウクライナへの武器供与もしています。もはやスウェーデンを中立国とみなす国はひとつもないでしょう。

一方スイスの中立政策は不変だったかというとそうではありません。中立の解釈はこの200年間、絶えず変化してきました。なかでも大きな変化は国連への加盟です。スイスが国連に加盟したのは2002年。これをきっかけに中立国スイスも国連の制裁決議には同調せざるを得なくなりました。もっともスイスはそれでも自国の中立性は維持されるとみなしています。その理由は、安全保障理事会が最終的に求めるものは「世界平和の回復」だからです。スイスの国連加盟が正当だとする根拠もそこにあります。また国際社会もスイスの中立性はなんら変わるものではないと受け止めました。

ところか国連加盟から20年目に起きたロシアのウクライナ侵攻はスイスの中立性に重大な変化をもたらしました。

ターゲス・アンツァイガーは次のように記しています。

「多くの戦争では、誰が加害者で誰が被害者かは明確ではない。しかし、ウクライナ侵攻では、ロシアが侵略者、ウクライナが被害者であることは国際法上明らかだ。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は国連憲章のいくつもの条項に違反している。ウクライナは自衛権を行使しているだけだ。このような場合に自国の立場を表明しない国は、加害国の共犯と見なされるだろう。このことが他のどの国よりも当てはまるのがスイスだ。ロシアの原料取引の8割はスイスを経由し、ロシアの個人・企業の在外資産の3割はスイスの銀行に預けられている。もし制裁を取りやめれば、スイスは戦争で儲ける国になってしまう。つまり、ロシアに制裁を科すことではなく、科さないことが中立性を傷つけることになる」

つまりスイスには他の選択肢はなかった言っているのです。

「国際的な圧力は強まっていた。もし制裁に関して譲歩していなければ、スイス自らが米国と欧州連合(EU)から制裁を受けていた可能性がある。ただ、今回の決定により、スイスがウクライナで仲介役を務めることは不可能になったかもしれない。(中略)その判断はこの国の将来を決定づけることになるだろう。スイスがEUやNATO加盟国を中心とした西側連合に参加するという結果を生んだからだ。今回の件は、将来的に世界を脅かす同様の惨事が起きた場合の先例になる。中国がいつか台湾の併合に乗り出すことが危惧されている。もしそれが現実となった場合、ウクライナ侵攻での論理に従えば、スイスは中国にも制裁を加えなければならなくなるだろう」

自国の意思とは関わりなく、スイスは中立政策を変更せざるを得ない状況になってしまったのです。しかも今回のロシアへの制裁に同調したことにより、将来起こりえる中国の台湾侵攻時の行動までもが規定されてしまったのです。地政学的リスクが中立国スイスに及ぼした影響は想像以上に大きなものだったと言えるでしょう。

まさにVUCA(ブーカ)の時代を象徴する話です。

VUCAとは「先行きが不透明で、将来の予測が困難な状態」を意味する流行語です。もともとは1990年代後半に軍事用語として使われるようになった言葉ですが、デジタルシフト、世界的な気候変動、コロナのパンデミック等々、「先行きが不透明で、将来の予測が困難な状態」が次々に現れるようになり、ビジネス用語としても急速に使われるようになりました。

VUCAとは以下の4つの単語の頭文字をとった造語です。

Volatility=変動性

Uncertainty=不確実性

Complexity=複雑性

Ambiguity=曖昧性

プーチンの侵略戦争はVUCAそのものです。いったい誰がこれほどまで残虐な侵略を予想していたでしょうか。米国のバイデン大統領は西側のリーダーを気取っていますが、しょせん外野スタンドから大声を張り上げているにすぎません。ロシアの軍事行動を1ミリたりとも止められていません。経済制裁は絶対的に必要な措置ですが、軍事介入はしないと米国大統領が公言すれば、それはロシア軍を放置すると言っているにすぎず、誤ったメッセージいがいのなにものでもありません。

それだけでも大失態でしたが、さらにバイデンは失敗の上塗りを重ねたのです。先週末、ホワイトハウスの記者会見の席で「ロシアが生物・化学兵器を使用しても軍事介入はしないのか?」との質問に、バイデン大統領は「軍事介入は考えていない」と即答。結果的に、ロシアの偽旗作戦(ウクライナが先に生物・化学兵器を使用したことへの報復として実施したと言い張る)も放置すると同義の発言です。

「ロシアが一線を越えれば米軍(あるいはNATO軍も)も軍事介入せざる得ない」と釘を刺すのがしかるべき対応でした。それが抑止力というものです。

それにしてもスイスの中立性すら脅かされ国際環境の変化のなか、非核三原則の墨守しか頭にない岸田総理は無責任です。VUCA時代の日本の安全保障を真剣に考えるべきです。

(HARVEYROAD WEEKLY1244号『VUCA時代の安全保障』より)