オムロン株式会社 作田 久男 氏
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オムロンの理念を、全世界3万3800人の社員に正しく伝えていく

オムロン株式会社
代表取締役社長 作田 久男 氏

財部:
今回ご紹介いただいた、住友電工の松本正義社長とはどんなご関係なんですか?

作田:
じつは昭和19年生まれの申年のメンバーが集まって、仕事だけでなく世間話も含め、たまには情報交換しようという会が3、4カ月に1回あるんです。私はその会に2回目から出ているんですが、松本さんは第1回目からそこに顔を出されている発起人の1人です。

財部:
そうなんですか。

作田:
それは非常にざっくばらんな会で、中でもメーカー同士ということもあるのでしょうが、松本さんとは割と話していて気心が合うんです。それで先日、松本さんに、「財部さんって知ってるやろ?こんな企画があるんだけど、リレーで回してるもんで、受けてくれへんかなあ」ということで、二つ返事でお受けしたという流れなんですよ。

財部:
ありがとうございます。当然われわれも、オムロンさんのことはよく存じ上げているわけですが、これまでなかなか接点がなくて、お邪魔する機会がありませんでした。じつは私はずっと、日本のものづくりや製造業を応援してきたつもりなんですが、そこでやはり「日本の製造業のバリューの核心はデバイスである」ということを実感しています。ですから、そういう視点でみると、失礼な言い方になるかもしれませんが、僕にとってオムロンさんは、ある意味でなんとも「整理のつかない会社」なんですよ(笑)。

作田:
そうですか(笑)。

財部:
というのは、オムロンさんは、先進的な技術の部分を重視される一方で、理念の部分も非常に大切にされていらっしゃる。そうは言っても、作田社長が、この普遍的ともいえる理念の部分と、絶えず猛スピードで変化する先進的な部分との整合性を、どのように取ってマネジメントをされているのだろうかということに、非常に興味を抱いていたんです。また私自身、作田社長が入社される際、オムロンの企業理念をみて「これだ」と思われたというエピソードを記事で読み、じつは「ちょっと信じがたいなあ」という印象も抱いていまして。今日はぜひ、そのあたりから伺いたいのですが。

作田:
まあ、できるだけ率直な話をしますとね、私は慶應大学の工学部出身ですが、昭和43(1968)年の卒業で、割と景気のいい頃でしたから、3年生の頃には、就職に向けて企業に出向く実習もありました。当時、工学部の場合、就職には必ず学校推薦が必要でしたが、私はそれを一度断ってしまったので、「学校としてはもう推薦は出せない。君の意志で好きなところへ行きなさい」と言われたんです。

財部:
はあ。

作田:
それで仕方なく、多くの企業が掲載された就職ブックを丹念に読み、「どこかにいい会社がないか」と探しているうちに、オムロンという会社を見つけました。当時、オムロンは一応、東証一部に上場していましたが、まだ売上高が130億円ぐらいの小さな会社でした。ところが、その本の2、3ページの紹介記事を読んでいたら、たとえば「われわれの働きで われわれの生活を向上し よりよい社会をつくりましょう」という社憲や「適者生存の法則」など、非常に面白いことが書いてある。でも、こちらにしてみれば、いくらそこに書いてある言葉は良くても、「それは本当だろうか」と思いますよね。

財部:
思いますよね。

作田:
それでまあ、とにかく確認するに限るということで、5月の連休明けに東京から京都まで来ましてね。人事担当の係長に「申し訳ないですが、『よりよい社会』とはどういうことですか?」、「適者生存の法則とはどういう意味なんですか?」、と聞いたんです。

財部:
ほお。

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作田:
そのとき非常に印象的だったのは、当時は京都の花園にあった本社がまだバラックのような建物で、それこそ明治・大正時代に建てられた学校の校舎のような感じだったことです。ただ、中央研究所だけは立派な建物になっていましたね。それはまあともかくとして、人事の係長が「ちょっと社長に聞いてきますわ」といって、私が通された応接室と社長室を行き来していましてね。「ここと社長室とは目と鼻の先なのに、もうややこしい。自分が行って話したい」と思ったんです。

財部:
ははは(笑)

作田:
さすがに、それは許されませんでしたが(笑)、そのときに興味を持って聞いたことが、先の2つだったんですよ。1つ目の社憲については「衣食足りて礼節を知る」というように、まずは自分たちの生活が向上しなければ、瞬間的には「社会のために尽くす」ことができても、そんな生活を20年、30年と続けることは不可能。だから素直に、まず自分たちの働きでわれわれの生活を向上させよう。そしてその活動を通じて社会に貢献しよう、ということで、これは松本さんのところでも、住友家の家訓にあるのではないでしょうか。

財部:
ええ。

作田:
ただ、オムロンの場合でも、それが「はたして日常の活動の中でDNAにまで刷り込まれ、自分たちのビジネスにリンクしているのか」という部分になると、「本当だろうか」と私は思いました。でも、それはそれとして、私は「これはじつに素直な社憲だなあ」という印象を受けました。普通、社憲といえば堅い内容だったりするものですからね。

財部:
そうですね。

作田:
それから、2つ目の「適者生存」ですが、人事係長によれば、それはまさしく「社会にとって必要な会社が生き残る」ということでした。でも私は、社会にとって必要な会社が生き残っていくのはその通り。ダーウィンの進化論でも言うように、まさに環境に適応している。ただ、それはよくわかるのだが、「もっと何か、会社としておっしゃりたいことがあるのではないですか?」と聞いたんです。すると、今流の言葉で言えば、「規模を拡大して勝ち残るようなことはしたくない。そうなると、おそらく傲慢になる」、という答えが返ってきたんですね。

財部:
はい。

作田:
つまり、規模の拡大を至上命令として企業経営を行うと、会社も個人も傲慢になっていくであろうから、あくまでお客様を中心とする。その際、もちろん特定のA社、B社というお客様もあるが、そのバックにあるのは社会。だから社会が求める潜在的なニーズを掘り起こし、それをもって我が喜びとする、というわけです。当時まだ学生だった私は、それも「ちょっと綺麗事すぎるな」と思ったんですが、「規模の拡大は追わない」という言葉には非常に興味があった。もちろん日々の活動の結果として、会社が大きくなることを否定するわけではないが、規模の拡大自体を目的にしてはならない、という言葉は魅力的でした。

財部:
なるほど。

作田:
その意味で、創業者の立石一真は凄かった。1968年に入社してからも驚くことが数多くありました。先にも申し上げたように、当時オムロンは売上高130億円ぐらいの企業で、リレーやマイクロスイッチなどの主力商品で稼いでいました。ところが、その年の5月10日の創業記念日にはすでに、立石一真は「やっぱりソーシャルニーズの創造だ」と話しているんです。やはり、あの人は、頭のてっぺんから足の先までそれなんですね。それから40年が経ったいま、なんとも不思議な話で、いま私がこの会社のCEOをしているわけですが、この精神を失っちゃいかん、と本当に思いますね。

財部:
その「ソーシャルニーズの創造」とは、どういう意味なんでしょうか。

作田:
「社会貢献に対する具体的な行動」ということですね。それとも関係する話ですが、彼は「SINIC理論」の提唱者です。これは要するに、科学と技術が互いに関係し合って世の中のニーズを吸い上げ、社会が進歩していくという考え方ですね。もともとオムロンは一民間企業ですから、科学というより技術中心ですが、社会を進歩・発展させるために必要な科学というものを、われわれもきちんと見極めなければならない、というのが彼の考え方でした。

財部:
そうなんですか。

作田:
それから、彼は「日本にはこれから情報化社会、さらに高度情報化社会がやってくる。だから企業はそれに向けて経営努力をしなければならない」ともいっていたわけですが、当時、そういう話はしても、何も実行しない経営者が多かった。ところが彼は、高度情報化社会に向けて、もの凄い投資をしていたわけです。

財部:
どのような投資ですか。

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作田:
たとえば1960年代、いまの自動改札装置の雛型にもなっている入場ゲートを開発し、世界で初めて阪急・北千里駅に無人駅システムを設置したんです。たかだか売上高130億円ぐらいの会社がよくもまあ、と、いまでも思いますね。それからCD(現金自動支払機)、つまり現在でATMと呼ばれている製品にも、主力部品で儲けたお金を湯水のようにつぎ込んでいた。そのときに彼が話をしていたのが、「これから情報化社会、さらに高度情報化社会がやってくる、世の中のソーシャルニーズを先取りしなければ駄目なんだ」ということです。

財部:
強い思いがあったんですね。金儲けが一番の関心事ではなかった。

作田:
私は、立石一真には、「自分のために働こう」という発想はほとんどなかったのではないかと思います。そもそも「儲けよう」という発想がないわけだから、経営者としてはどうかという人もいるでしょう。ですが、私なりのいい方をさせていただくと、そこに彼の並々ならぬ情熱がある。「自分は何のために生まれて、何をなすべきなのか」とあれこれ考え続けた結果、「やはり社会に貢献しよう」と彼は思った。そして、その方法として「潜在的なソーシャルニーズを何とかして顕在化させよう」とした。たとえば、いま目の前にある信号をそれぞれ個別に点滅させているから交通渋滞がひどくなる。だからエリア一帯をすべてネットで制御すれば、車の流れがもっとスムーズになるだろう、と彼は考え、64年に世界初の「電子式自動感応信号機」を作ったわけです。いずれにしても、当初のオムロンぐらいの規模では――、ウチは端末しかやらなかったわけですけれどね

財部:
並々ならぬ情熱、ですね。

作田:
もっと上流にいけば、大メーカーさんとの競合になることはわかりますから、「(オムロンが)本当に端末だけをつくって、この先、儲け切れるだろうか」と、彼も一応考えながらも、やはり勝算があったとはとても考えられません。でも、あえてそれをやっていった。それは、やはりパッションなんですよ。私はそこが、あの人の凄いところだと思うんです。