岡本硝子株式会社 代表取締役社長 岡本 毅 氏
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成功の反対は失敗ではなく、何もしないことだ

岡本硝子株式会社
代表取締役社長 岡本 毅 氏

財部:
三越伊勢丹ホールディングスの大西洋社長からご紹介をいただいた時、とても意外に思いました。岡本さんと大西さんとは、どんなつながりでいらっしゃるのでしょうか。

岡本:
大西さんと言えば、先ほどもニュースを見ていたら「元日を除いて年中無休にしている現在の営業体制を改め、休業日を設ける」と話していました。いつの間にか、デパートの休日がなくなってしまっていたのですが、「1日の売上よりも、質の高いサービスを目指す」とのことで、彼らしいと思いました。大西さんとの関係ですが、実は高校の同級生なのです。

財部:
そうなのですか。

岡本:
麻布高校というところなのですが、私と大西さんが入学したのは昭和46年でした。元々中高一貫校なので、今は採っていないのですが、当時は高校からの編入を若干名だけ認めていたのです。今でも覚えているのですが、その年は高校から13人が入りました。ところが麻布中学から来た他の連中は、中学3年で微分や積分を全部終えていて、漢文なども1年近く先に進んでしまっています。そこで授業が始まる前、高校1年に上がるときの春休みに、その13人が学校の先生のところに2、3週間伺い、補習のような形で勉強するわけです。その13人の中の1人が大西さんでした。ある意味、特別な同級生という感じですね。

財部:
そうなのですか。大西さんは、高校のことはあまりおっしゃられずに、「岡本さんは警察官僚から経営者になった面白い人ですよ」と言っておられました。

岡本:
そうですか。

「中小企業に世界初やオンリーワンは無理」だと諦めなかった

財部:
今日、お目にかかるに当たって、いろいろな資料をいただき、拝見しました。私は、自分がこういう仕事をしていながら「マスコミほど当てにならないものはない」と確信しています。実際に岡本さんの取材記事を拝見しても、私からすると一番肝心なところが抜け落ちているのです。

岡本:
はい。

財部:
何が肝心なことかというと、警察庁のキャリア官僚として16年間活躍してこられたことは、やはりもの凄い経験値だということです。1995年にお父様が急逝されて跡を継がれたわけですが、岡本さんについて書かれた記事はほとんど、「組織を動かすことにおいては警察も会社も同じだ」という形になっていますね。

岡本:
1つのパターンですね。

財部:
でもどう考えても、警察は軍隊のようなもので、あれほどしっかりとした組織は日本全体を見渡してもそうあるものではありません。岡本さんはそこでキャリアとして経験を積んでこられたのです。私にも(警察庁を)辞めた仲の良い友人がいますが、それは時には失敗もあるでしょう。キャリアと祭り上げられて足をすくわれたとか、失敗しながら組織の論理を身に付けていくこともあったかもしれません。岡本さんは(警察官僚から経営者に)右から左へと一気に変わったという点では、最初はとまどいや悩み、あるいは遠慮など、いろいろなことをお感じになったのでしょう。「組織を動かすことにおいては警察も会社も同じだ」というところに到達するまでに、さまざまなプロセスがあったと思うのですが、その辺をぜひ聞いてみたいと、じつは思っていたのです。

岡本:
「あの時なぜ決断したのだろう」と後から考えると、「神のお告げ」のようなものがあったとしか言いようがないのです。財部さんがおっしゃるように、当時いろいろと考えたのは事実です。(その中で判断基準が)2つありまして、1つは、どうせ右に行っても左に行っても同じなら、自分にとって苦しい道を選ぼうというのが、道が分岐したときの私の判断基準です。

財部:
ほお。

岡本:
というのも、右に行っても成功するときは成功するし、左に行っても成功するときは成功する。逆に、右に行っても失敗するときは失敗するし、左に行っても失敗するときは失敗する。そのような時、もし自分で楽な方を選んで失敗したとなると、「あの時に楽な道を選んでしまったがゆえに、失敗してしまった」と自分を責めてしまうと思うのです。

財部:
ええ。

岡本:
だからかえって(苦しい道を選んだ方が)「あの時、自分にとって辛い道を選んだのだから、こういう結果になっても仕方が無い」と納得できるのです。もう1つは、2、3の記事にも出ていると思うのですが、役人なら優秀な同僚や後輩がいるので、いくらでもポストは狙えますが、幸か不幸か、私は先代社長である岡本勲の長男で、兄弟に男は1人だけでした。そういった2つの基準なり状況の中で、あのような選択や決断をしたのです。

財部:
お父様は、事故でお亡くなりになられたのですよね。

岡本:
そうです。

財部:
では、もろもろの話をつなぎ合わせると、小さい時から「あなたが継ぐんだよ」というようなことを本当に言われていたのですか?

岡本:
それは言葉に出しては言われなかったですね。私が警察になぜ入ったのかにも関係するのですが、「10年だけなら好きなことをやってもいい」と父が最終的に折れてくれたのです。最初は「絶対に商社か銀行に行け。もし役人になるのなら、せめて経済官庁に行け。警察なんてとんでもない、もし行くのであれば勘当する」とまで言われました。

財部:
それでもなぜ、警察庁を選ばれたのでしょうか?

岡本:
どうせ将来ビジネス、少し世俗的な言葉で言えばお金儲けをしなくてはいけないのなら、天下国家のために大手を振るって、お金とはまったく無縁のところで働きたかったのです。当時の大蔵省にしろ通産省にしろ、やはりプレッシャー・グループ(圧力団体)がいるわけで、そういうものがないところ。邪(よこしま)な気持ちではなく純粋な気持ちで国民のために働ける場所として「10年間だけやらせてくれ」とお願いし、気がついたら16年もやっていたわけです。そんな父との約束が、やはり心のどこかに引っかかっていたというのも、(警察官僚を辞めて会社を継いだ)3番目の理由としてあると思います。

財部:
そうなんですか。

岡本:
父は「どうせ中小企業を継がせるなら、せめて本部長ぐらいやらせてからでも遅くないのかな」と思っていたようです。また、「先代は跡を継がせるのをあきらめたみたいだよ」という話も、父が亡くなったあとに親しい人から聞きました。ただ私としては、好きなことを16年間やらせてもらったし、その前から好きなことができたのも、大学に行けたのも、この会社があったからだという思いがありました。

財部:
はい。

岡本:
ですから財部さんがおっしゃるように、はたから見ると意外なことも、本人にとってはあまり特別なことではないというのが、本当に正直なところです。

財部:
私自身、野村證券を辞めた時に、この国では「身分証明書」を失うととんでもないことになることを実感しました。大学生であれば学生証がありますし、大企業は会社のIDがあれば、基本的にどこでも「私はこういう者です」で通ります。ところが、そういう1つの「支え」から外に出た瞬間、もうこれは失敗したなと思いました。そこが私の出発点になったのですが、岡本さんが決断されたあとは、どのような気持ちでしたか。

岡本:
もう決めたことなので、とにかくやるしかない、という感じでしたね。

財部:
社員の皆さんはどのような感じでしたか?

岡本:
最初は、「何か変な奴が降りてきたな、ちょっと様子を見てやろうか」という感じだったでしょうかね(笑) 。

財部:
まあ、雲の上から降りてくるような感じですよね。

岡本:
ただ、旧・内務省というか警察は、とにかく人を如何にマネジメントするのかが勝負です。その意味で、先ほど財部さんが少し触れられたように、マネジメントという部分では警察も会社も同じというのは、本当だと思います。どういうことかと言えば、たとえば社長は、いかに社員が働きやすい環境を整えるかを考えなければいけませんし、私が現場にいた時、刑事部長の立場であれば、部下である刑事がいかに取り調べや張り込みをしやすい環境を作るかを考える必要がありました。