TAKARABE
JOURNAL本質を捉える視点

大谷翔平 脳の選択的集中

●通訳者の矜持

私が好きな新聞コラムは日経夕刊の『明日への話題』です。専門家の立場で時事ネタを話題にすると問題がくっきりと浮かびあがるからです。

「大谷翔平選手の専属通訳者についての報道に、通訳者の立ち位置の難しさを思う。プロ通訳者の基本は、中立な立場で異言語間の訳出に徹すること。いくら頼まれても他の業務は兼ねないし、通訳者が『私』と言ったら自分自身ではなく発言者を指すくらい、自分を封印する。専属通訳者であっても同様のはずだが、野球の世界では状況が異なるようだ。特に水原一平氏は通訳だけでなくマネージャー的な役割も担い、周囲は2人の関係を親友だと誤解したように見える」

これは4月2日の『明日への話題』に掲載された立教大学の鳥飼玖美子名誉教授のコラムです。鳥飼教授は大学在学時から同時通訳者として活躍し、23歳でアポロ11号の月面着陸の生中継をした傑出した通訳者です。彼女のコラムはこう続きます。

「肝心の大谷選手を差し置いて、本人に確認すべきことを通訳者と交渉したり処理したり、通訳者は情報の全てを握る立場になったと思われる。通訳者には通訳業務を通して知り得た情報は他に漏らさないという守秘義務もあるが、大谷選手と通訳者の存在は渾然(こんぜん)一体となっていた。便利屋としてあれもこれもやってあげて感謝されていた一方で、肝心の通訳では、正確な訳出には必須のメモ取りをせず、もとの発言にないことまで英語にしたこともあり、それが巧みな通訳だと称賛されたが、本来は、肝心の発言者を越えて通訳者が脚光を浴びてはならない。いわんや代わりに判断したり決定したりしてはならない。通訳者は、あくまで黒衣(くろこ)として、コミュニケーションを仲介するのが役目である。それでも、他人の言葉を自分の言葉として語るのは、やっぱり苦しい。でも、その苦しさに耐えられなくなったら通訳をしてはならないと私は考え、自分の唄を歌いたくなった時点で通訳業から離れ、研究職に転じた」

通訳者としての矜持は「自分を封印する」ことにつきるのです。このコラムを読みながら、一人の通訳の記憶がふと蘇りました。それは1999年に日産再建のためルノーから送り込まれたカルロス・ゴーン氏が重用した若い女性通訳のことでした。来日直後ではなく、厳しいセレクションを経て選ばれたのでしょう。ある時から、ゴーン氏の取材はすべて彼女が行うようになりました。活舌がよく、自信に満ち溢れ、おまけに容姿端麗だった彼女はゴーンのお気に入りとなりました。いつしか彼女は日産社内でも一通訳とは思えぬ存在感を発揮するようになり、通訳者としての態度も豹変していきました。本人は良かれと思っての行動なのでしょうが、ゴーン氏が言ってもいない話を勝手に語るようになってしまったのです。

もっとも後から正確に翻訳しなおしますから、実害はないのですが、分をわきまえぬ行為だとメディア関係者の間では不興をかっていました。大谷翔平選手の通訳であった水原一平氏はその比ではありませんでした。鳥飼名誉教授の言葉を借りれば水原氏は「便利屋」であり、二人は「混然一体」となっていたわけですが、その批判を超えた「親友」でもありました。それは大谷選手の古巣のエンゼルスのオーナーも二人の関係を「親友」と公に語っていることから、メディアを通じて日本人が抱いているイメージ通りの関係だったのでしょう。つまり「通訳」のみならず「便利屋」の枠をも越えた「親友」だったとすれば、鳥飼名誉教授の主張は興味深くはあるけれど、イッペイ・スキャンダルを語るには十分とはいえません。

⚫️イッペイ・スキャンダル

イッペイ・スキャンダルの詳細は省きますが、大谷選手が記者会見で語ったことを真実とすれば、大谷選手は違法賭博に関わったことは一切なく、大谷選手名義の銀行口座から胴元に送金された450万ドル(約6億7500万円)は、水原通訳が自ら賭博で作った借金返済のために勝手に操作されたものということになっている。実際、水原氏は窃盗と詐欺の容疑で3月20日にドジャースを解雇されたものの、彼の不正送金の実態は明らかにされていません。そこはまさに当局の捜査に関わる点でもあり、大谷選手も記者会見ではあえて触れませんでした。その結果、大谷選手の資金管理の甘さがアメリカのメディアから多くの批判を集めていました。超富裕層でも一度の電子送金の上限は50万ドル(約7,500万円)です。違法賭博業者のマシュー・ボーヤ氏に、延べ9回にもわたって水谷氏が勝手に送金し、大谷選手が気づかなかったという主張はリアリティを欠き、受け入れられぬというのです。

その批判は的外れです。大谷選手に限らず、天才と呼ばれるような突出した才能をもつ人間が自分の専門外の事柄について他人を頼るのは、むしろ合理的な選択と言ってもいい。自分の専門分野に没入すると、その他諸々の事柄に振り向ける意識など消えてしまう。あるいは専門外の事柄へ振り向けるエネルギーを可能の限り低く抑えることで、専門分野により集中できる環境を作りたいというのはきわめて自然な行動です。歴史に燦然と輝く偉業を残した科学者、芸術家、発明家たちにもよく見られる現象です。そうすることによって、天才は天才と呼ばれるに値する革新的な成果を挙げられたのでしょう。

昨シーズン、大谷選手は1日11時間の睡眠をとり、昼寝もとるなど常人では絶対に出来ぬ疲労回復、体調管理をして2度目のMVPを獲得した話は有名ですが、日常生活のサポートを水原氏に丸投げ通訳などを他人に任せていなければ、そんなことはできません。もちろん大リーグの誰よりも技術の獲得、身体づくりにもエネルギーを注いでいるのです。大谷選手の周りには専属の代理人もいれば一流の法律事務所、会計事務所などのチームでサポートをしています。しかし日常的には水原氏が試合や練習にも常に同行し、専門家チームとのコミュニケーションも水原氏がすべて仲介役を果たして以上、水原氏は大谷選手の莫大な資産をその気になればどうとでも出来る立場にあったのです。大企業の個人情報漏洩事件は後を絶ちませんが、その原因のひとつは悪意を持った社員による情報の持ち出しです。堅牢なセキュリティシステムも関係者が犯行に及べば簡単に崩れてしまいます。ギャンブル依存症の水原氏が大谷選手の銀行口座を勝手に操作することなど容易にできたはずです。会計事務所はどうなっていたんだと疑問がわきますが、その問い合わせにも水原氏が都合よく回答していたのでしょう。大谷選手が犯した罪はギャンブル依存症の男に野球以外のすべてを依存してしまったことであり、それはつまり人選びを誤ったことです。

人間の脳は「選択的注意」と「エネルギーの配分」の原理に基づいて機能しています。専門分野に集中し、他の細かい事項は他人に任せる行動は、この二つの原理を反映しています。

「選択的注意」の概念は、人間が一度に処理できる情報の量には限りがあるため、特定の刺激に焦点を当てることで、より重要なタスクにリソースを割り当てる必要があることを示しています。また脳のエネルギー消費は驚くほど高く、そのために効率的なエネルギー配分が必要になります。脳はより価値が高いと判断した活動にエネルギーを集中させることで最適なパフォーマンスを実現しようとします。専門分野に集中し、その他の活動は他人に任せる行動は、エネルギーを最も重要なタスクに集中させるための天才脳の傾向だと脳科学の観点からも言えます。天才たちに自らを比肩するつもりなど毛頭もありませんが、人的交流、読書、資料読み込み、取材などのインプットや執筆、講演、ドキュメンタリ―制作等々のアウトプットにジャーナリスト人生の大半を注いできた私も、結果として「選択的注意」と「エネルギーの配分」偏重です。明らかにバランスを欠いた人生を送ってきました。財務管理など妻とスタッフと税理士に任せきりで、銀行口座の管理はおろか、ATMで通帳記入や送金をすることもできませんでした。法人の決算も個人の申告もすべて人任せでした。ですから大谷選手の社会人としてもっと大人になれという「野球小僧批判」の的外れ感を私は強く感じています。人間の脳には限界があるのです。それをどう効率的に配分していくかによって、人生の色合いが変わってくるでしょう。イッペイ・スキャンダルはあらためて脳の「選択的注意」と「エネルギーの配分」を考えさせてくれるよいきっかけとなりました。

HARVEYROAD WEEKLYより特別転載