TAKARABE
JOURNAL本質を捉える視点

大谷翔平のニーチェ的考察

魔法でも奇跡でもない

「あまりに完璧なものを見たとき、我々は『どうし たらあんなふうになれるのか』とは考えない」その 代わりに「魔法によって目の前で奇跡が起こったか のごとく熱狂してしまう」というニーチェの言葉を思い出しました。それはペンシルベニア大学心理 学部教授アンジェラ・ダックワースの著書『GRITやり抜く力』の中の一節です。きっかけはWBCでし た。

日本中を歓喜の渦に巻き込んだ米国とのWBC決 勝戦。大団円は9回表にやってきました。3-2と 1点リードで迎えたジャパンは先攻の米国の攻撃を ゼロに抑えれば14年ぶりの優勝という場面です。す でにツーアウト、ランナーなし。そこで大谷翔平が 迎えたバッターはメジャーでMVPを3回獲得している マイク・トラウト。大谷とロサンゼルス・エンジェ ルスの同僚です。

つまり米国のベースボールファンも見たことがな いしびれるシーンでした。息をのむ二人の攻防は3ボ ール、2ストライクのフルカウントで、大谷が投じた 切れ味鋭いスライダーにトラウトが空振り三振して 決着がつきました。それはまさに日本中が「魔法によって目の前で奇跡が起こったかのごとく熱狂」し た瞬間でした。

私たちは大谷翔平を目の当たりにした時、比類なき「天才」を感じ、とてつもなく熱狂してしまいま す。決勝戦翌日の3月22日、私は名古屋のホテルにい ました。エレベーターホールでいる時、70代とおぼ しき品の良いご婦人二人の話し声が耳に入ってきま した。

「この歳になると胸がときめくことはないけれど、

久しぶりに大谷選手にはときめいているの」

大谷選手は老若男女、すべての日本人の心を鷲づ かみしたようですが、ファンだけではなく、侍ジャ パンの同僚たちまでもが彼に魅了されていました。 打者大谷のスイングスピードの速さも打球の飛距離 も彼らの度肝を抜き、日本最速の164キロを投げる投 手大谷の力強さは日本人離れしていました。パリー グの昨シーズンホームラン王&打点王の2冠に輝いた 西武の主砲、山川穂高選手などは、大谷選手のバッ ティングを見て「人間じゃない。野球選手をやめた くなった」とあまりの実力差に萎えてしまったほど です。セリーグで昨シーズン最年少三冠王の偉業を 達成した「村神様」の神様ぶりもすっかりかすんで しまいました。栗山秀樹監督は大谷選手を「野球の 神様に愛された男」と表現したほどです。

 誰もが思います。大谷選手は特別なギフトを天から授かった天才だと。しかしニーチェはこう言っています。

「芸術家の素晴らしい作品を見ても、それがどれほどの努力と鍛錬に裏打ちされているかを見抜ける人はいない。そのほうがむしろ好都合と言っていい。気の遠くなるような努力のたまものだと知ったら、感動が薄れるかもしれないからだ」

さらにニーチェはこうも言っています。

「偉業を達成する人とは一つのことをひたすら考え続け、ありとあらゆるものを活用し、自分の内面に観察の目を向けるだけでなく、ほかの人びとの精神生活も熱心に観察し、いたるところに見習うべき人物を見つけては奮起し、あくなき探究心をもってありとあらゆる手段を利用する」

みなさんも決勝戦直前のロッカールームで円陣を組んだ侍ジャパンの選手に向かって大谷が放った言 葉をご存知でしょう。

 「一個だけ。憧れるのをやめましょう。ファーストに ゴールドシュミットがいたり、センターにトラウ ト、ベッツがいたりとか、野球をやっていれば誰も が聞いたことがある選手がいると思う。今日1日だけ は、憧れてしまったら超えられない。今日は僕たち は超えるために来た。トップになるために来た。今 日1日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけを 考えていきましょう。さあいこう!」

たしかに素晴らしい。憧れていたままでは彼らに 勝てないというメッセージは大リーグでプレーした 経験のない大半の日本人選手を鼓舞するには最高の メッセージになりました。報道によれば決勝戦で3点目のホームを踏んだ周東佑京選手は大谷選手のメッ セージ聞くまでは「試合が終わったら米国チームの スーパースターたちと写真を撮ってもらい、サイン をもらおう」と考えていたそうです。こんなメンタ リティでは米国に勝てるはずがありません。このメッセージを知った時に、私は「これは大リーグでの し上がってきた大谷選手自身のメンタルだったのだろう」と考えました。

「憧れていたのでは大リーグで一流にはなれない」

そう強く思うことで大谷選手は自分を鼓舞してきたことが容易に察せられました。

熟練工のごとき真剣さ

その時、アンジェラ・ダックワースの記述が脳裏 にうかびました。

「最高のパフォーマンスは、無数の小さなスキルや 行動を積み重ねた結果として生み出される。それは 本人が意識的に習得する数々のスキルや、試行錯誤 するなかで見出した方法などが、周到な訓練によっ て叩き込まれ、習慣となり、やがて一体化したもの なのだ。やっていることの一つひとつには、特別な ことや超人的なところはなにもないが、それらを継 続的に正しく積み重ねていくことで生じる相乗効果 によって、卓越したレベルに到達できる」(『GRIT やり抜く力』)

 それがWBCで我々の目に鮮烈に焼きついた天才・大谷翔平の本当の凄さなのではないでしょうか。もちろん努力すれば誰でも大谷になれるわけではありません。身長や骨格など身体の構造的な差が あれば致命的です。身長170センチ台の小さな選手で はどんなに頑張っても大谷選手と同じパフォーマン スをはできません。しかしかりに身体的特徴や野球 センスが同程度(メジャーリーグにはいくらでもい ます)であったとしても、容易に大谷になることは できません。大谷選手の野球に傾ける情熱たるや尋 常ではありません。シーズン中でも試合が終わった ら酒を飲み歩き、シーズンオフはテレビのバラエテ ィ番組に興じたり、ゴルフ三昧したりする大多数の プロ野球選手とはまったく違います。メジャーリー ガーのラーズ・ヌートバー選手が初めて間近で接して感じた 大谷選手の凄みは試合後のルーティーンだったとい います。なんと大谷選手はWBCの試合終了後も、毎日 欠かさず筋トレしていたというのです。200キロのバ ーベルを使ってスクワットを5回5セットするのを見 て、ヌートバー選手は度肝を抜かれたそうです。並 外れた精神力です。科学的、論理的思考にくわえ、 卓越したやり抜く力が大谷翔平という希代のアスリ ートを創り上げたのです。

 ニーチェは、個人の才能や能力を神秘化する「天才論」に強く反発し、個人の自己努力と環境との相互作用が才能を形成するのだと考えました。

「偉大なる人間は、偉大なる条件によって、偶然にも生じるのではない。むしろ、偉大なる条件によって、偶然にも生じた人間が偉大なのだ」

 才能や能力は生まれ持ったものではなく、人間の努力と周囲の環境との相互作用によって形成されると主張しました。人間は自己の限界に挑戦し、自分を創造的に発展させられるというニーチェにすれば「天才論」はこのような人間の可能性を狭めるものなのです。そしてじつに興味深いことにニーチェは偉業を達成した人びとのイメージを熟練工の職人のイメージと重ね合わせていたことです。

「(偉業を達成した)彼らはみな腕の立つ熟練工のごとき真剣さで、まずは一つひとつの部品を正確に組み立てる技術を身につける。そのうえでようやく思い切って、最後には壮大なものを創りあげる。それ以前の段階にじっくりと時間をかけるのは、輝かしい完成の瞬間よりも、むしろ細部をおろそかにせず丁寧な仕事をすることに喜びを覚えるからだ」

 ニーチェの金言を日々の仕事に生かしたいものです。

*HARVEYROAD WEEKLY1285号から転載