全日本空輸株式会社 取締役会長 大橋 洋治 氏
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ANAブランドにこだわらず、LCCで世界と組んでもいいのではないか

全日本空輸株式会社
取締役会長 大橋 洋治 氏

財部:
JR東日本の大塚会長とは、どんなご関係なのですか。

大橋:
大塚さんとは、お互いに中国大陸からの引揚者というご縁もあり、親しくお付き合いをさせていただいています。大陸から引き揚げてきた経営者の会「大地の会」を一緒に立ち上げ、仲間と一緒にお酒を飲みながら昔話をしています。

財部:
実は私の父親は昔、満鉄(旧・南満州鉄道)総裁の秘書をしていました。総裁が帰国する時、「お前は日本に帰るのか、満州に残るのか。会社を作って残るなら応援する」と言われたので、父は大連の近くに満州精機という中小企業を作り、そこで仕事をしていました。写真も何枚か残っており、満州で終戦を迎えたのですが、父は中国人の社員を非常に可愛がっていたので、引き上げの時に社員たちが「社長を守ってあげよう」といって財産から何まで列車に積み込んでくれました。そのため、父はそれほどひどい目に遭わずに帰国できたのです。

大橋:
大塚さんのお父様も満鉄職員でしたから、非常に関係が深いですね。旧満州で生まれたか、満州にゆかりのある人という、「大地の会」の会員資格が十分にありますよ。

財部:
そうですか。引き上げの際、大橋さんも大変なご経験をされたのですか。

大橋:
私は当時、旧満州のソ満国境付近のジャムス(現在の中国・黒竜江省佳木斯〈ジャムス〉市)という街に住んでいました。黒竜江に流入する松花江(しょうかこう)という川が流れているだけで、ほかには何にもないようなところです。ソ連軍が侵攻してきた1945年8月9日の夜中に、私たちは着の身着のまま、命からがらに逃げて、何も持たずに日本に帰ってきました。父は関東軍に招集されていて、あっという間に捕虜になったようです。

財部:
そういうご経験は、大橋さんの人間形成の中で、非常に大きな意味を持っているのでしょうね。

大橋:
財部さんの場合は、お父様が財産を持って帰ってこられて良かったと思いますが、私は一銭のお金もなく、乞食のような状態でした。帰国後は、親戚の家に居候していたので、小学校1、2年の頃までは、「引き揚げ者」と言われると、何となく後ろめたい気持ちでした。まもなく親父が帰国し、炭焼きで何とか生計が立つようになったので、中学生の頃からは普通の生活になりましたが、今から考えると「ちゃんとしなければならない」という気持ちが、心のどこかにあったのでしょう。

財部:
なるほど。

大橋:
旧満州で、ソ連軍に追いかけられたことを今でも覚えています。私たちはとくに女子供ばかりで逃げてきましたから、母を含めて女性は皆、丸坊主で隠れていました。約1年半、ハルビンで隠れていたのですが、よく帰ってこられたものだと思います。私もそこで中国人に助けられ、大変親切にされました。白いご飯を食べたことはほとんどなく、コウリャンや粟(あわ)、稗(ひえ)、大豆の小さいものなどを一所懸命食べた記憶があります。そんな経験があるので、困難な時は当時の苦労を思い出すのです。

財部:
大学の卒論で、日中貿易論をテーマにされたということですが。

大橋:
私は慶應大学で、のちに学長を長く務めた中国政治史研究者の石川忠雄先生のゼミに入りました。石川先生には『中国共産党史研究』という有名な著作があり、毛沢東が中国をどう支配していったのかを解き明かしていこうとする授業が、とても面白かったのです。当時、先生の授業が2単位あったのですが、その両方でAを取り、面接試験に合格すればゼミに入る資格が得られます。ところが、私が大学に入ってすぐに入部したヨット部は、今の横浜市の本牧に合宿所があり、そこに練習に行くと、授業にほとんど出られませんでした。でも私は石川先生の授業にはすべて出席し、一所懸命に勉強しました。

財部:
体育会ヨット部との活動と、勉強を両立させるのは大変だったでしょうね。

大橋:
その甲斐あって、石川先生のゼミの面接試験に合格したのですが、先生は「ただ1つ条件がある。絶対にゼミを休むな。君がヨット部に入っているのは知っているが、授業に出られなければ、ゼミに入る資格はない。ヨット部を辞めるかゼミを辞めるか、どちらかを決めろ」と言うのです。そこで私は「わかりました、ヨット部を辞めます」と答えました。大学2年の秋頃だったと思います。

財部:
それは凄いお話ですね。

大橋:
その後、ゼミで何を勉強しようかと考えたのですが、中国共産党史も面白いのですが、私はそれを卒論のテーマにする気はあまりありませんでした。皆は中国共産党史の中から、国共合作のきっかけになった西安事件などを卒論のテーマに選んでいて、中には中国の近代文学に大きな影響を与えた作家・魯迅(ろじん)の勉強をする人もいました。でも私は、父が雑貨商を営んでいたこともあり、何の確証もないままに「これからは日中貿易が面白いのではないか」と思ったのです。

財部:
大橋さんは、早くから日中貿易に関心を持たれていたわけですね。

大橋:
「私は日中貿易を取ります」と言ったら、石川先生は「日中貿易と言っても、民間の貿易交渉が第5次まである。第5次交渉は、第4次交渉とは劇的に変わっているところがあるから、それを勉強したらどうか」とアドバイスしてくれました。それで私は「第4次日中民間貿易交渉と第5次交渉の差異について」を卒論のテーマにしたのです。その後、勉強を進めながら卒論の素案を書いたのですが、「君、これは新聞の1面に載った大きな見出しを並べているだけだ。もっと勉強したほうがいい」と、先生に素案をつき返されて非常に困りました。

財部:
そうですか。

大橋:
大学3年の夏に故郷の岡山に帰った時、父に「大学で何を勉強しているんだ」と聞かれ、「実はこういうことを勉強しているのだが、どこを探しても資料がみつからない」と話しました。すると父は、「岡山に、全日空の社長をしている岡崎嘉平太という偉大な人物がいる。彼に相談してみたらどうだろう。彼は日中貿易も手がけているぞ」と教えてくれました。父は岡崎さんのことをよく知っていて、岡崎さんはちょうど「LT貿易」(1962年11月に調印された「日中総合貿易に関する覚書」に基づき、1963〜67年の5か年にわたって行われた長期総合貿易)の時代に、全日空の社長を務めていたのです。そこで夏休みが終わってから、制服制帽で岡崎さんに会いに行きました。

財部:
全日空の第2代社長および「LT貿易」交渉の責任者を務めた岡崎嘉平太さんに、直接会いに行かれたのですね。

大橋:
はい。とても暑い中で「実はこういうことで」と話をしていたら、岡崎さんは「僕は、そういう詳しいことはわからない。僕が取り組んでいるのは、(『日中総合貿易に関する覚書』に署名した)廖承志(りょうりょうし)さんと高崎達之助さんの頭文字の2文字を取った『LT貿易』を通じて、中国と日本の民間貿易をいかに発展させるかということで、それならば、こういう本がある」と教えてくれました。

財部:
それで、卒論テーマの資料が見つかったのですね。