住友商事株式会社 宮原 賢次 氏
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バブル時代の真っ最中から、商社に対する危機意識があった

住友商事株式会社
取締役会長 宮原 賢次 氏

財部:
今回は野村ホールディングスの氏家会長からのご紹介なんですが、まずは宮原会長と氏家会長とのご関係について教えていただけますか?

宮原:
1990〜93年にかけて、僕が米国住友商事の社長をしていたとき、氏家さんもちょうどニューヨークにおられましてね。2人とも日本人学校の世話をしていたんです。それでときどきお会いして、割合親しくお話をさせていただいて。僕が日本に帰ってきたのは93年なんですが、氏家さんはもう少しおられたのではないですか?

財部:
はい、氏家さんは97年に社長になられましたから。

宮原:
僕は96年に社長になったんですが、その頃、会社は非常に大変な時期でした。でもまあ、野村證券の社長を引き受けられた頃、氏家さんは僕以上に大変だったでしょうね。

財部:
ただ、あそこまでどん底になってしまったので、逆に何でもできたのではないでしょうか。

宮原:
ええ。氏家さんが社長になられた頃、一緒に飯を食おうということになったんですが、僕は「ほんとうに大変ですね、頑張ってくださいよ」といったんです。というのも、氏家さんはもの凄く人がいいじゃないですか。

財部:
よく分かります。実際、氏家さんが社長に決まったときも、「ああいうキャリアの人で務まるのか」という意見が大勢でしたよね。

宮原:
証券会社の中のいきさつはよく分からないですが、僕たちが知っている範囲からいえば、とても大変だなあということで、非常に同情していたわけです。でも、氏家さんはほんとうに立派にやられましたよね。まあ、そんな関係で氏家さんとはずっと親しく関係が続いているんです。野村證券のアドバイザリーボードも、僕は二年間やらせていただきましてね。

財部:
なるほど。でも最近、商社はほんとうに様変わりしましたよね。

宮原:
そうでしょうかな。まあ、ここのところ、非常に収益性が良いという意味でしょう?

財部:
非常に第三者的にいわせていただくと、やはり80年代はある意味で、商社のピークだったのではないでしょうか。もちろん私たちの感覚からするとですが――。

宮原:
ああ、全く別ですね。僕ら内部にいる者としては。

財部:
そうですか。でも、やはり80年代にはもう商社は「冬の時代」といわれていて、その後はもう、商社不要論、中抜き論と続いてきていますよね。

宮原:
商社不要論っていうのは、昭和30年代からありますよ。

財部:
そうなんですか。

宮原:
そうです、何回も出てきてます。いわゆる昭和30年代末から始まった大量消費時代、要はスーパーマーケットが出てきた頃からありますね。僕は昭和33年に会社に入りまして、その頃は僕らも若くてよくわからなかったんですが、まあ、初めからいわれていたのは要するに、中抜き論みたいなことなんです。

財部:
ほお。

宮原:
でも改めて考えてみると、財部さんがいわれた80年代が商社のピークみたいなものですね。当時はバブルの真っ最中で、商社も本業よりも財務トレードの方でべらぼうに稼げた時代です。ただその分逆に、80年代の半ば頃から、「もうこのままじゃいかん、どうしたらいいだろう」という、商社に対する危機意識はもの凄くありました。ですから私の二代前の伊藤元社長は、商社はトレードだけでは食っていけない、事業会社を起こそうと話していましたね。ただ、あの頃は、やたら株が上がっていたでしょう……。

財部:
そうですね。

宮原:
だから当時、われわれは、経常利益が赤字でも、会社としてはいつもごっそり利益を出していた。何か知らんけど、株を売っていれば利益が出るというような、いい時代だったわけですよ。

財部:
これは非常に下世話な質問で恐縮なんですが、自分が社長になるということは、どの辺で意識をされるものなんですか?

宮原:
いや。僕は社長になんかなりたくなかったですよね、ほんとうに。

財部:
本当ですか?

宮原:
よくいわれるんですが、商社マンというのは雑誌記者や新聞記者の稼業に似てるんです。自分でプロジェクトを組み立ててフロントで商売するのが面白いんですよ。だから新聞記者でもね、第一線を離れ、いわゆるマネジメントをやることを嫌がるでしょう。

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財部:
そうですね。

宮原:
僕も1986年に役員になったとき、本部長をやらなければならなくなったんです。そうすると、今度は人を使っていかなきゃいかんわけですから、その頃から仕事が面白くなくなったんですね。ある意味で、一般のいわゆるマネジメントと同じような仕事になっちゃうわけですから。

財部:
商社の現場を、僕もそれほど知っているわけではないのですが、何度か取材した限りでは、およそ世間が考えている大企業としての「エスタブリッシュメント」の姿とは違う、ハードなものがありますね。

宮原:
そうです。いまでもそれは同じでしょうね。やはり、そういう気持ちの人が多くないと、商社としての強さが出ないですよね。

財部:
ええ。

宮原:
だからそういう意味で、僕は何かの本にも書いたんですが、人によって人生観もいろいろありますが、僕は会社の中では副社長で辞めるのが一番いい、と話しているんですよ。

財部:
社長と、どこが違うんですか?

宮原:
副社長もたいへんな仕事ですが社長とは責任の重さが全然違います。だから副社長で辞め、年金かなんか貰って悠々と、自分の趣味の世界か何かで生きていく。そんな人生が一番いいんじゃないですかな(笑)。つまり、いま流行りの「ワークライフバランス」ですよ。でもまあ、会社というものは、やはり誰かがトップで責任を持ってやらないかんわけですよ。

財部:
やっぱり社長業というのは、全然違うものですか?

宮原:
そりゃあそうですよ。僕は、1990年から93年まで米国住友商事の社長をしていたんです。それから本社に戻って3年間専務をやって副社長になり、1996年に「お前、次(の社長を)をやらないか」といわれました。でも当時はご存知のようにバブルが崩壊したあとで、会社も相当にしんどいことがわかっているわけですよ。その上に96年の社長就任直前に銅不正取引事件と云う大事件が発生して、会社が大損害を被ったときでした。でも何か、「もう逃げようがない」という感じが非常にしていましたね。

財部:
そうなんですか。

宮原:
はい。相当の整理をしなきゃいかんな、と。それはそれなりにやり甲斐があるかな、と思いましたけれどね。