株式会社ジョージズファニチュア 横川 正紀 氏

新たな「中食」の創造に向けて、試行錯誤の連続

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横川:
それ以来、そんな店をぜひやりたい、と思いまして、今から5、6年前に父(すかいらーく創業者・横川紀夫氏)、そして実際に『ディーンアンドデルーカ』を一緒に立ち上げたプロデューサーの山本宇一さんといろいろ研究しようということになり、とあるプロジェクトがはじまりました。例えば、ベーカリーやペストリー、チーズやハム、コーヒーにワイン、加えて日本ならではの味噌や豆腐、魚屋、肉屋という料理の素材を作る、もしくは提供する人たちがぐるりと周囲に集まる。そしてその真ん中に、テーブルレストランと惣菜屋さんがずらりと並び、お客様は素材屋さんを巡りながら自分の食材を買いつつ、そこで売られている食材を使った料理をレストランで食べられたり、惣菜を持ち帰りできる、というようなコンセプト、なんです。

財部:
ほおー。

横川:
「ものづくりをしている人たち」の側と、テイクアウトやレストランというエンドユーザーに接する側。その両者がつながる部分が同じ業態にあるものを作りたい、ということなんですね。そこで、僕らはこんな新しい業態を考えたんです。

財部:
それで、どうなりましたか?

横川:
敷地面積1000坪で東京のど真ん中に店舗を作ろう、なんていってやっていました。ところが実際に2年間やり続けたんですが、あまりにもスケールが大きいのと、実績がなさ過ぎるのが災いして、誰よりも大切な、「もの」を作って下さる人たちとの商談がなかなかうまく行きませんでした。

財部:
そうなんですか。

横川:
それから日本は食品衛生に対する規制が非常に厳しく、輸入できない食材もたくさんありまして、経験のない人が店舗を作るには、申請1つとっても難しかったですね。これは私の父のやり方なんですが、僕らは基本的に同業他社から人を引き抜いたりしないんです。

財部:
なるほど。

横川:
僕らは基本的に、よそのノウハウをベースに積み上げていくやり方ではなく、エンドユーザーの立場から「どうあってほしいか」を考え、それをビジネスとしてどんな形に起こしていくべきかを考え、さらに流通に乗せていきます。「変わるべきは流通であり、変えるべきは消費者ではない」というのが僕らのビジネスの基本。だから、このプロジェクトの時も、要は、今流通に関わっている人たちのやり方が大きく変わる訳ですから、それを十分に説得しなきゃいけないんです。でもそのハードルがあまりにも高すぎて、それがなかなかできなかったですね。

財部:
なるほど。でも客観的にいわせていただくと、横川さんご自身のデザインに対するプロセスやアレンジ、それから「食」というものとの接点としては、『ディーンアンドデルーカ』は非常にいい「入れ物」でしたよね。

横川:
そうですね。

財部:
やはりあれは、高いデザイン性がなければ成り立たないコンセプトじゃないですか。実際、みて楽しく、美しい、という点が、通常の流通とは全く違うところだと思うんです。

横川:
そうですね。でも私が『ディーンアンドデルーカ』も含めて世界を回り、「こういう食料品店がやりたいな」と思って様々な店舗を眺めていたときは、どちらかというと「側」、つまりデザインからみて「これはいい」と判断していました。もしくは、エンドユーザーとして食べてみての「おいしい、おいしくない」というところはわかっても、その本質部分に関しては、食物販のルーツなり難しさ、というものを汲み取り切れていなかったんです。

財部:
はい。

横川:
そのため、『ディーンアンドデルーカ』を始めて1年半から2年位まではとても苦戦を強いられました。 なぜなら、「とにかくニューヨークの店舗の通りにやればいいんだ。ブランドなんだから、格好良くやらなければいけないんだ」と、とにかく自分たちの「側」=「見た目」のことばかり考えていたからなんです。

財部:
うーん。

横川:
たとえば「食べきれないほどサイズが大きくても、大きいことが『ディーンアンドデルーカ』なんだ」とか、それから最近は全部直したんですが、エスプレッソバーの上のメニューがすべて英語(笑)。だから、並ばれたお客様がみな目を細くしてメニューをご覧になっているのをみて、「日本のお客様も、もっと英語がわかるようにならないと駄目だ」とか、訳の分からないことをいっていたんです。本当に、もう笑い話だらけなんですが、当の自分たちはそこにあぐらをかいているつもりもなければ、天狗になっているつもりも全くなくて、それぐらい純粋にDD(ディーンアンドデルーカ)が大好きで、DDはこうあるべきだ、と思ってやっていたんです。

財部:
ええ、その気持ちは分かりますよね。自分たちが好きなものをできるだけ純粋に、そのまま再現したいというのは、ある種、動機としてもよく分かります。

横川:
ところが、これも『ディーンアンドデルーカ』というブランドが持つ、いい意味での個性なんですが、ブランド力がもの凄く強いだけに、そんな「見た目」だけの感覚的な理解だけでは全くもってついていけないということが半年、1年で分かり、その弊害がすぐに現場に現れたんです。

財部:
それは、たとえば?

横川:
まあ、売り場のお客様からのお声もそうですし、売れない商品が滞留してしまったり。実際、お客様からみても、「『ディーンアンドデルーカ』は、これでいいのか?」という意見もいただいて。 味やサービス、デザインの1つ1つに使われている素材だとか、形はニューヨークの店舗のままなんですが、お客様は形でものをみてないんですよね。

財部:
そうですね。

横川:
お客様はやはり、匂いや感覚、「全体感」で「『ディーンアンドデルーカ』らしさ」を感じているので、僕らが表面的なところだけを接ぎ合わせても、どうしても中からその「つぎはぎ」が出てしまうんです。ちょうどその年に丸の内、渋谷、品川と3店舗をオープンさせたんですが、結局、品川店を立ち上げている段階で、自分たちがそういう状況にあるということに気付き始めたわけです。ですから僕らはそれ以降、予定していた出店計画を止めてですね、そのバックアップの時間を作ろう、と決めたんです。

財部:
DDとの契約上の問題はなかったんですか?

横川:
ありました。それで「ごめん」というと、彼らは「うん、ロイヤリティを払ってくれればいいよ」といってくれたんです(笑)。

財部:
ははは(笑)。

横川:
冗談ですが、事業としては数字的に非常に厳しかったのは事実です。ただ、その辺りはある意味で父から学んだ部分でもあるんです。

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財部:
それはどういうことですか?

横川:
「自分の成長があればこそ、初めてモノもできるのであり、モノがあるから人が成長するんじゃない」と、よく子供の頃にいわれましてね。それと同じ事を、僕が事業を始めた頃も、よくいわれたんです。

財部:
なるほど。

横川:
先の『ディーンアンドデルーカ』もそうです。つまり、「このシステムがあるから店舗展開ができるのか?そうじゃない!店舗展開できる力があるからシステムが生きるんだ」という理屈ですよね。僕はその意味で、「店舗をやっていく自信がまずなければ、どんなにブランドの形や商品があっても、基の部分から崩れていく」、ということを学びました。だからあの時点で、「いったん『ディーンアンドデルーカ』は出店を止めます」、ということにして、丸の内、渋谷、品川の既存店舗に経営陣もみな入り、現場を見よう、ということになったんです。そうしたら、問題がどんどん出てきたんですね。

財部:
そうですか。

横川:
たとえば品川店のオープン時には、野菜、果物、生魚、生肉の生鮮食品を扱っていたんですが、結局、開店2ヶ月で魚をやめ、3ヶ月で野菜、6ヶ月で肉と果物をやめたんです。

財部:
ほお。

横川:
しかも生鮮をやめるために、さらに1000万円近くを投じてケースを全部リニューアルしなければなりませんでした。魚用のケースにはほかに何も置けないし、肉は肉で一定の湿度と温度の調整が必要なので、肉用のケースにはハムですら入れられないんです。

財部:
そういうものですか?

横川:
ええ。そのために機械を入れ替え、様々なレイアウトチェンジを施し、惣菜を買った人がそれをパッと食べられる「Eat in」というスペースを作りました。それが、品川店がオープンしてたった6ヶ月後のことだったので、もう経営陣やお客様、現場スタッフからみても「一体経営者は何をしているんだ、店を次々にオープンするといったのに出さないし、作った店は早々に壊すし」と、矢面に立たされた時期がずっと続いたんです。

財部:
その当時、横川さんご自身は、当然そういう状況に主体者となって関わっていますよね。客観的にみて、「これは本当にうまく行くのだろうか」と思われた時期はありましたか? 僕には、横川さんがずっと確信を持ち続け、「このままで大丈夫だ」といったとは考えにくいのですが。

横川:
始めて半年位だったでしょうか、とても怖かったですね。どうしたらいいのか、まったくわかりませんでした。ただその辺も、親譲りなのかもしれないんですが、「開発魂」というものが僕の中にもありまして。開発をやっていけばいくほど自信がついてくるというか、「粘土をこねればこねるほど、何か自分のものになっていく」、という感じですね。

財部:
なるほど。

横川:
それで、俯瞰でみているとあまりにも分からないので、僕も現場に入れていただいたんです。品川の3号店を作るときに、プロジェクトリーダーをやらせてもらい、それこそ商品の選定から店舗の設計、人の採用まですべてに関わりました。その時、日本にある食料品店はほとんど全部回りました。メジャー片手に、ショーケースの高さからお客様側の棚のピッチや奥行きを測り、商品の価格やみせ方、照明の数、音楽にいたるまでを全てメモし、日本の食料品店がやってきたことを、アメリカ生まれの「DD」にどう落としたらいいのかを考え始めたんです。それをやっていくうちに、何かこう、「この温度でこの湿度の時、粘土はこれぐらいの力で揉めるな」ということが、だんだん分かってきました。ただ、それでも見えないことはたくさんあったので、最後は「やって駄目ならすぐに変えよう」という腹づもりはありましたけどね。

財部:
そうですか。

横川:
生鮮はみんなに反対されつつも、「『ディーンアンドデルーカ』のニューヨーク店に鮮魚コーナーがあるんだから、やるべきだ」といってやったんです。ところが、日本とアメリカでは魚の食文化のレベルが違います。魚を主食とし、築地という世界一のフィッシュマーケットを有する国で、よく分からない店の軒先に並んだ魚など、誰も買いません。しかも、アメリカ人たちは「アイスベッド」という、クラッシュアイスを敷き詰めたものの上に、魚をそのまま並べるんですから。

財部:
でも、僕でも「アイスベッド」をやりたいと思いますよ。やはり「これがDDだ!」という感覚がありますからね(笑)。

横川:
ところが、朝からそんなことをやっていると、午後3時頃には魚の目が真っ白になり、カサカサに乾燥してしまいます。そこで霧吹きで一所懸命に塩水をかけても、もう駄目。しかも、魚の前に飾っているディスプレイ用の昆布もカサカサに乾き、救いようがありません。

財部:
そうなんですか。

横川:
結局、肉でも野菜でも同じようなことが起きて、月に数百万円分もの生ものを捨てるような状態になってしまいました。そうなると、お金の面もそうなんですが、やはり現場が一番萎えてしまいます。食べ物を扱う者として、「やはりこれではいけない」と思うんですね。

財部:
なるほど。

横川:
それぞれの国にはそれぞれの食の歴史・文化があります。そもそも人が生きるうえで絶対不可欠な「食」を扱う者として、なにが大切なのかが段々見えてきました。 そして、自分たちが扱っている「中食」というものの位置付けや歴史、同業他社の方々が苦労されたこと知ることの大切さも、同時に理解できるようになっていきました。我々は生鮮をすべてやめ、「Eat in」を増やしました。すると、様々なお客様が「Eat in」に来てつくりたてのサンドイッチやオードブルをその場で食されたり、お持ち帰りされるようになり、徐々にケータリングやデリバリーなど、多様なサービスも行えるようになっていっきました。プリペアードフード(惣菜)にしても、オードブルからメイン料理まであれほどのバリエーションを扱っている店舗は、それほどないと思います。実際、クリスマスとか週末などの特別な日には『ディーンアンドデルーカ』のお料理を・・・、食材だったら『ディーンアンドデルーカ』の生ハム、チーズ、ワイン、オリーブオイルを買うというようなイメージが沸くお客様がだんだん増えてきました。それにともない、ふだん他の食料品店では売れないような商品が、ウチで売れるようになりました。

「知られざるブランド」作りを目指して

財部:
ところで、横川さんが2000年にご自身で作り上げた人気家具・雑貨店の『ジョージズファニチュア』と、この『ディーンアンドデルーカ』では、どちらがエキサイティングなんですか?

横川:
どちらがエキサイティングかという比較は僕にはありませんね。 僕の中では最終的に「総合ライフスタイル事業」として全体を1つにまとめたグループや会社を作りたいと思っていまして、その構想に個々の事業が、一歩一歩近づいていることが1番エキサイティングなんですよね。

財部:
『ジョージズファニチュア』をはじめたきっかけは何だったんですか?

横川:
もともと『ジョージズ』という業態を始めたのは、僕が会社を作ったときなので、今からちょうどもう7年半前になりますね。きっかけはその前に働いた会社での仕事にあります。 じつは会社設立の3年前――僕が大学を卒業した年なので96年なんですが、父が投資をしていた会社でインテリア事業を始めることになり、私はそこに入社しました。そしてその年の4月、目黒通りに『Pier1 imports』というお店の1号店がオープンしたんです。

財部:
そうですか。

横川:
『Pier1 imports』は、北米で約1000店舗の大型チェーンを持つインテリアショップで、「ホームファッションストア」と彼らは称しています。『Crate&Barrel』(クレート・アンド・バレル)などのアメリカ有数のインテリアショップの一角で、事業規模的にはおそらくトップ。当時、「1ビリオン」といっていましたので、一千億円以上の売上高を持つ『Pier1』を日本で展開することになったんですね。

財部:
なるほど。

横川:
ところが僕はその頃、戦略的に、日本ではこれからライフスタイル事業が盛り上がっていくこと。それから高齢化社会になっていくと、様々な意味で5、60代の人の持つ価値観というのが、非常に大事になってくるということが、あまりわかっていませんでした。ただ純粋に、いいなあというぐらいの気持ちで、父が投資した会社に入社したんです。僕はもともとアメリカの『Pier1』は知っていました。僕のイメージで『Pier1』は、西海岸の広々としたハイウェイにある大型店で、お客様がトラックで乗り付け、いつも後ろの荷台にソファーなどを載せて帰るという、何となくダイナミックなアメリカ、というイメージ。商品も花柄のクッションや大きなキャンドル、それからオレンジ、イエローなどに彩られたカラフルなオーバルのプラターの大皿など目黒の第1号店では、そういったものが非常に売れました。まさに「行け行けドンドン」で、「全国100店舗展開」の目標を掲げ、その頃、無印良品さんに続き、『FrancFranc』(フランフラン)さんに負けるな、という勢いでやっていたんです。

財部:
そうですか。

横川:
ところが、ちょうど2年目から雲行きが怪しくなってきまして。まず静岡、埼玉、群馬に出店し、1番遠いところで広島までいったんですが、出店を急ぎすぎて、立地もニーズに合わず、ブランドの認知度も追いついていきませんでした。 当時すでにイオンさんなどが大型店をどんどん地方に出していたので、不動産契約の賃料は安かったのですが、もう、とことん売れなかったんです(笑)。しかも(『Pier1』の商品は)すべて輸入品に頼っていたので、その仕入れもコンテナ単位で半年先の在庫を予想発注していたんです。
ところが3年目に入り経営状況の悪化から、急遽半年先の出店が全て見送りとなり、適正の倍以上の在庫を抱えてしまうことになったのです。当時、世界47カ国から年間100本以上のコンテナを輸入していたので、2000坪の倉庫はあっという間に一杯になってしまいました。

財部:
えっ、それは凄いですね。

横川:
凄かったですね。 今思うととても良い経験をさせてもらったことに感謝していますが、当時は無茶だったなと思います。私以外にも、不動産やマーケティング、営業、コンサルタントと小売とは違った経験の持ち主が集まっていましたので、とても斬新なアイデアは生まれるんですが、やはり基本も大切ですよね。 この時に、「粘土のこね方」を身につけたんだとおもいます。とても勉強になりました。 抱えてしまった過剰在庫を、いくらかアメリカに買い取ってもらったとはいえ、出店が止まり、在庫処分が永く続きすぎた売り場は陳腐化し、売上が落ち、人が辞め、どんどんと悪いスパイラルに陥っていきました。

財部:
それは大変ですよね。

横川:
ところがその時、僕は「アメリカの主導ではなく、日本の主導でやれるんじゃないか」、ということを、何となく思い始めたんです。

財部:
それはどういうことですか?

横川:
そもそも『Pier1』はアメリカに生まれたブランドで、商品のサイズや品質、デザインの指向に関しても、日本のマーケットニーズと少しずれていました。素直にお客様と向かい合い、自分の中で「こんなお店があったらいいのに」といろいろ考えているうちに、大学時代に自分が一番好きだった京都の雑貨屋さんを思い出したんです。

財部:
そうなんですか。

横川:
大学時代、僕が住んでいたマンションの1階に『ジョージズファニチュア』という雑貨屋があったんですが、そこのオーナーに会いたいと思い、彼のところに行きました。じつはその彼が、今のうちの副社長の天野譲滋(ジョージ)なのですが、僕は彼に「日本での仕入れを教えてほしい」と頼み、ギフトショーなどの展示会によく連れて行ってもらったんです。『Pier1』の事業は撤退方向に向き始めていたので、当時19店舗あったお店の半分の店舗をまず再生するプロジェクトをはじめたんです。一年で店舗収支を黒字に出来たらそれを新しい法人として事業化するという、投資家としての父との約束で。 スタッフと力を合わせ、がむしゃらに働きました。空間や什器をそのままに、商品やディスプレイでお店を変えていきました。コストもとことん下げられる限界まで下げました。そしておよそ9ヶ月で黒字にすることが出来たんです。 翌年の2000年2月に、ジョージや仲間たちと株式会社ジョージズファニチュアを設立し、完全撤退となる『Pier1』の、残った半分の店舗も合わせて全19店舗のスクラップアンドビルドをおこなっていきました。

財部:
早かったですね、それは。

横川:
そうですね。でも、当時の19店舗のスクラップアンドビルドは本当に大変でした。 大変なことはいろいろあったんですが、何より出店特性が多岐にわたっていたので商品構成やイベントの組み方にも苦労しました。 中でも青山と自由が丘の二つの物件はインテリアの激戦地区で、いわゆるNB商品を中心とする『ジョージズ』には、バッティングなどの問題も多くどうしても展開が難しかったんです。 同じ頃、展示会などで海外に出張も多く、海外での新しい業態を良くリサーチしていました。 ちょうどその頃、いわゆる「ライフスタイルショップ」――すなわちインテリアからさらに広がり、音楽、洋服、食べ物、アートなど様々なものを、1つのライフスタイルの目線で編集するという、ライフスタイル型のセレクトショップという業態がヨーロッパでぽつぽつ始まっていました。

財部:
はい。

横川:
「これだ、これがやりたい」、と思いそれから3ヵ月後の11月に『CIBONE』(シボネ)をオープンさせたんです。 都心立地の青山と自由が丘を『CIBONE』、残りは『George's』(ジョージズ)という業態で、引き受けた店舗をどんどんリニューアルしていきました。

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財部:
今、『George's』は何店ぐらいあるんですか?

横川:
この10月に、大阪・豊中市に20店舗目をオープンしまして、年内はこれで出店完了です。来年も6店舗ぐらいの開店計画を立てているので、ちょうど2010年までに50店舗くらいの規模を有しているのではないでしょうか。

財部:
そうなんですか。

横川:
ただ、あまり知られすぎるのも良くない。 お客様が「何か知ってるね」というぐらいでいいんです。店舗がどこにでもあるような「金太郎飴」にならないためにも、その地域の皆さんに知っていただくだけで十分です。

財部:
それはなぜですか?

横川:
「どこにでもある」ということが、必ずしもお客様の安心に繋がらなくなってきたと我々は考えています。 「100店舗あることが凄いという時代はもう終わった」、企業力=安全、良品、とは限らない時代になってきたという事なんです。なので、あえて規模としての認知は広げないようにしています。 そのひとつひとつの細かいディテールの積み重ねの上に、『George's』という人格を創り上げていくことが大切だと思っています。