野村ホールディングス株式会社 氏家 純一 氏

資本市場のインフラづくりを本気でやっていく

photo

氏家:
野村の重点施策の一つは、アジアでの投資銀行業務を強化していくことです。80年代初めから一生懸命やったのに、母国市場のバブル崩壊後の90年代にごそっと欧米勢に取られた。そのシェアを取り返したい。今、中国でビジネスをしてつくづく感じるのは、中国もキャピタルマーケットがほとんどなく、資金循環を銀行だけに頼っています。でも、それがいかに危険かっていうのを、彼らも十分にわかっていて、日本の失敗から学びたいと思っているわけです。

財部:
はい。

氏家:
日本も早い時期にキャピタルマーケットを拡充して、銀行だけでなく、リスクをとる人たちを広く分散させておけば、あんなみじめな長いトンネルをくぐらなくて済んだはずなんです。だから不良債権処理が終わって、これからは資本市場のインフラづくりに国として力を注いでいかなきゃいけないって思いますよね。そうすると、やるべきことは資本市場のインフラの拡充・強化だと思っています。

財部:
そうですね。

氏家:
キャピタルマーケットを育てるというのは、野村のエゴで言っているわけではないでしょう。どう考えても10数年苦労した原因の一つは、キャピタルマーケットが未熟だったということです。それは安普請のインフラを作ったから。法制度然り、格付け機関然り、監査法人然りです。

財部:
本当に財務省の幹部にもよく言うのですが、あそこが金融庁と別れましたよね。で、資本市場のインフラをどう育成していくかっていう政策は長期的なものになりますよね。 しかし、みんな財務省からの出向で早く帰りたくてしょうがないわけですよ。

氏家:
うんうん。

財部:
2年間の出向の人間がですね、法律はどうすんだ、会計はどうすんだと言っても、短期間じゃなかなか出来ないですよね。しかも証券側には経産省から来ている。では、いったい誰が責任をもって資本市場の育成を長期的な視野でやっていくのか。財務省?金融庁?経産省?って考えた時に、そら恐ろしい状況になるな、というのが僕の認識なんです。

氏家:
そうなんですよね。

財部:
会長のお話を聞いて、本当にその通りなんですけれども、わが国はどうやってインフラを強化していくのか。誰がやるのか。こういう問題意識を私は持っています。

氏家:
難しい問題ですよね。でもこれは、金融庁と証券会社とそして投資銀行業務を行っている銀行が力を合わせてやっていくしかないと思いますね。日銀にもそういう考え方があり、証券化を含む資本市場の育成については、かなり一生懸命にやっている。

財部:
そうですね。

氏家:
ちょっと言いにくいけども、行政のほうも、どっかから来て2、3年で省に帰りますっていうんじゃなくて「ここで勝負だ」っていう人に来て欲しいし、業界側もそういったインフラ作りに優秀な人材、資源、時間を割く覚悟をしていかないと駄目です。

財部:
そうですよね。氏家さんが財界でも資本市場のお話をされているのは聞いてはいるので、是非、今後も具体的に動いてほしいなという気持ちもありますね。

氏家:
ええ。そうですね。

中東へのキャラバン隊で人生観が変わった

photo

財部:
氏家さんご自身が、30代40代を振り返っていただいた時にですね、今の自分の礎を築いた時期はいつ頃になるんですか。

氏家:
私の場合ちょっと変わっているんですね。海外の大学にいましたでしょう。この会社に入ったのが30歳でしたが、入る時はえらく話がスッキリだったわけですよね。わかった、明日から来いってーー。(笑)30年前の米国の経済やビジネスの大学院で、みんなが行きたいと思っていたのは、アセットマネジメントカンパニーかインベストメントバンクだった。これは今でもあまり変わっていないでしょう。プライベートエクイティファンド、ヘッジファンド、それから伝統的なアセットマネジメント会社、そして投資銀行のゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー・・・と、こういう順番でね。

財部:
でも野村だったんですね。

氏家:
僕が入社したのは75年。資本市場が金融の中で最もダイナミックで面白いと思っていました。それとこの会社がなんていうか融通が利くというか、いい加減というか(笑)「明日から来ていいぞ」というのがまあ、マッチしたのでこの会社に決めたんですよね。

財部:
入社してどんな仕事をしたんですか。

氏家:
まず株式のアナリストをやりました。アナリスト自体は訓練としては面白かったですけど、その頃は株価レーティングなんてものはなく、スターアナリストもいなかった時代で、言ってみれば、非常に地味な仕事で、いくらか退屈でしたね。その後、副社長の通訳兼かばん持ちで、日本株を海外に売り込みに行くという役が来たんです。たぶんそこが、この会社に対する考え方が大きく変わったところです。この会社は乱暴だけれど面白いと。(笑)

財部:
それは、どんな風なところが面白かったんですか?

氏家:
やっぱり中近東ですね。77、8年くらいから、82年くらまで中近東に通っていました。

財部:
じゃあ、そのオイルマネーに日本株を売り込む時に氏家さんがやられていたんですか?

氏家:
オイルマネーの呼び込み役の一番末席。

財部:
例の、キャラバン隊ですか?

氏家:
そう。キャラバン隊の裏方。(笑)いや、ほんと。僕は、中近東行きの荷物の梱包とか、みやげ物の調達とか得意だったんですよ。イラクで何を拾って、アブダビで何を買って、クウェートにはお酒は持ち込めるけれども、サウジは粉のお酒でも捕まったら大変なことになる、とかね(笑)。みやげ物なんかも、サウジには能面は入らないとかね。偶像崇拝になってしまうから。そんなことで中東は随分行きました。

財部:
へえ、そうですか。

氏家:
あっちはラマダーンっていう断食月がありますよね。先ほどの副社長、伊藤さんという方ですが、「断食月だから氏家行け!」って言うんですよ。(笑)外国人は日中でも食えるはずだからって。でも行ったらね、サウジアラビアやアブダビでなんてぜんぜん食えないわけ。ホテルの中でドア閉めたら食べられるけれども、ドアを開けたとたんに水も飲めない。だけど、伊藤さんが言うには、そういう時に欧米人は来ないから、お前でもサウジアラビア中央銀行(SAMA)の総裁に会えるぞ、と。だから1ヶ月くらいいたわけ、断食月に。

財部:
ほお。

氏家:
それで日経新聞にどーんと一面で「サウジ、日本に投資。SAMAが出動」と。それがサウジが日本株を買った一番最初です。「これは面白いぞ、この会社」と。 その理屈ははっきりしていたわけですよね。あそこで王様たちがギャンブルでお金を使うよりも、日本に回して投資したほうが、むこうも得だし、こっちも得だと。じゃ、取りに行こう。こういう話だったんです。本当に。面白かった。 そういうのはやっぱり転機になりましてね、若干大学に長くいたこともあって、リサーチだけやっているのだったら、大学だとか研究所と行ったほうがいいな、と思っていたんです。でも中近東通いと商売をやったらこっちのが面白い。それでだいぶ考え方変わりましたよね。これがやっぱり転機じゃないですか。

財部:
97年にいきなり社長になられましたよね。そのときの要因っていうのは?

氏家:
その前にいい経験になったな、っていうのは、やっぱりアメリカです。87年にスイスから帰ってきて、2年間くらい総合企画室にいて、それから89年にアメリカ行ったわけですよね。最初の電話では、ロンドンだと言われました。そのころ野村はロンドンではシティの雄だったわけです。そうしたら上司から2〜3日後に「間違えた。ニューヨークだ」と。隆々としたロンドンじゃなくて、誰がやってもうまくいかないニューヨークだと。これはえらい違いだと思った。でも、言ってみればダウンサイドリスクはもうなかったわけですよ。

財部:
ほーお。

氏家:
ニューヨークの店ができたのは1927年ととっても古いんですが、日本企業で3番目の進出だっていったかな。ものすごい歴史が長い。でも、苦労してやってきたけど、なかなかうまくいかない。そのはずですよね。だってニューヨークの資本市場は歴史があって一番広く深くて、ですから一番競争的なマーケットです。で、行ったら案の定儲からなかった。で、儲からないから目新しいこと、人よりも一歩先のことをやろう、本社の命令を聞いていたら儲からない、と思いました。

財部:
ニューヨークでは何をやったんですか。

氏家:
まず、個人住宅の証券化をやって、その次に商業用不動産の証券化です。その頃商業用不動産の証券化っていうのは、2、3社やっていたけど、メジャープレーヤーはいなかった。で、僕ら思いっきり入っていった。3年目くらいからけっこう儲かりました。一時はね、利益で老舗の一角のファーストボストンを捕まえたと思った。

財部:
そんなに儲かったんですか。

氏家:
で、その後、おいしそうなマーケットだと大手がわーっと入ってきたわけですよね、モルガン・スタンレー、ゴールドマン・サックス・・あのへん。競争がきついところを、拡張一本ヤリで行って、それを拡張したまま帰ってきちゃったら、あとで散々にやられた。(笑)

財部:
ああ。(笑)

氏家:
蛇口をきちんと締めて、後任者に渡してくればよかったんだけど。後は、東京からの遠隔操作になってしまいました。ここで何を学んだかというと、海外ビジネスはやっぱりリスクテイクとその管理。リスクをとって、新しい分野でやっていかない限り、競争条件が比較的温和な日本からの指示でやっていたのでは全然儲からない。こんな世界に7年もさらされたわけで、あれは、勉強になりましたね。勉強というか、ひやひや、ドキドキ、リスクいっぱい。 あの経験があったので、帰ってきたら、本社のリスク・マネジメント担当になりましたが、どうかなと。むしろリスクテイクを進めるほうに回ったほうがいいくらいだな、とそのとき思いました。

財部:
ニューヨークでの経験が97年以降の野村證券全体の方向に見事に重なってて、まさにそちらにもっていかれたということなんでしょうか。

氏家:
そちらの方向に持って行った部分はありましたね。もってきすぎた面もありましたけど、確かにね。

財部:
それは、どこでどういう風に思われるんですか?

氏家:
例えばブローカレッジ業務は従来型の取り次ぎ業務から、ポートフォリオアドバイスの業務に変えなきゃいけない。注文の取次ぎ業務はどんどんネットにシフトしていっており、今は野村の店頭はアドバイス業務中心になってますでしょう。この方向は間違ってない。そちらの方向にずっと進んできているんですけど、一時期、個別株式のブローカレッジ業務はもうやめたほうがいいらしいぞ、ということになってしまった。そこまで言っていないのに。トップの声の出し方っていうのはホント気をつけなきゃいけないな、と思いました。

財部:
予想以上に反応が出ちゃうんですね。

氏家:
こっちが思っているより大きく増幅される、ないしは大きく曲がりますもんね。だからまあ、持ってきすぎたっていう表現より、組織に新しい方向付けをするときは、声をかなり抑え目にして、丁寧に進み具合を確かめていかなきゃいけない、と思いましたね。トップダウンは、かなり綿密な計算をしていかないととても危険だな、とやっぱり思いましたね。

財部:
氏家さん、プライベートなお時間っていうのは何をされているんですか?

氏家:
多いのは、お酒を飲んで寝転がって本を読んでる。僕は運動も比較的好きなんです。スキーもテニスをするし、釣りも潜りにも行く。でも、寝転がって本を読んでるのが一番多いかもしれない。

財部:
ちなみにお好きな本っていうのはどんなジャンルなんです?

氏家:
一番読んでいて気が休まるのは、開高健。小説よりむしろね、旅行記みたいのが好き。鳥獣、魚なんかの話。あと池波正太郎。「剣客商売」なんて大好き。秋山小兵衛とお春。

財部:
ああ、僕は池波さんの本で文章の訓練したんですよ!長い文章を、ぷつん、ぷつん、と切ってつなげていく。いいですよね。

氏家:
あれだけおさえた筆で、よだれが垂れるようなのを書いて、すばらしいね。いっぱい飲んだ後、寝転がりながら小兵衛やお春の本。やめられないですね、これ。(笑)

財部:
そうですね。今日はありがとうございました。

photo
(2006年8月2日 中央区日本橋 野村ホールディングス本社にて/撮影 内田裕子)