株式会社ワコールホールディングス 塚本 能交 氏
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「付加価値」で少子高齢化時代のマーケットに挑む

株式会社ワコールホールディングス 代表取締役社長 塚本 能交 氏

財部:
まずは、今回ご紹介いただいた堀場製作所の堀場厚社長とのご関係をお聞きしたいのですが――。お2人は小さな頃から同級生でいらしたんですね。

塚本:
ええ。彼とは小学校1年から一緒ですから、もう54年ですか。附属だったので、京都とはいっても、皆いろんなところから来ていて、全然会わなくなった人もいますが、堀場君とは結構、ずるずるつきあってきましたね(笑)。

財部:
先日、堀場社長にお話を伺って興味深かったのは、「堀場製作所はフランスの会社を2つぐらい買収して、非常にうまくいっている。それはやはり京都の会社だからだ、という側面がある」ということでした。私の解釈ですが、フランス人には大なり小なり、日本人を自分たちよりも文化的に下に見るような目線があると思うんですが、それが京都ということになると、ちょっとニュアンスが変わる。つまり京都の食文化、伝統工芸等々が、フランス文化と拮抗するという意味で、京都は特別な街なんだ、というご説明だったんです。

塚本:
なるほど。

財部:
さらに堀場社長によれば、「京都は日本一情報が早い街である」と。京都の経営者が日常的に遊びつつ、情報交換する中で、皆さんがそれぞれ海外各地にネットワークをお持ちで、「じつは今日シンガポールでこんなことがあった」という話が、気軽なお付き合いの中で、日常的に出てくる。だから「東京よりも、よっぽど情報量が多いですよ」というようなお話があってですね。そういうお付き合いの中で、塚本さんと堀場社長とは、子供時分の頃から友達でいらして――。

塚本:
はい。ただね、彼とは仕事の話も、情報交換もしたことがないんですよ(笑)。

財部:
そうなんですか(笑)。

塚本:
でも、彼のいうことはよくわかります。堀場君の場合、外国人の社員さんが半分以上いるでしょう。ウチの場合も、東南アジアの会社をグループとして考えたら、海外の人たちも多いんですが、ただ1つ、彼がいう「京都には情報が集まる」という意味では、情報量は圧倒的に東京の方が多いと思います。

財部:
そうですか。

塚本:
ただし、東京は人が多すぎて、情報を持っている人たちが、そんなに簡単には集まれません。その点、京都はある意味でちょうどいいサイズの街なので、朝食会などいろいろなことができる。しかも各社が互いに異なる業種で、さまざまな形で活躍しているので、情報もたくさん入るということはありますね。で、堀場君のところはフランス、ウチは東南アジアを中心に伸ばしていったわけです。

財部:
なるほど。ここ10年ぐらいを振り返ると、大阪はかなり空洞化して、企業が東京へと進出してきました。でも京都の企業については、あまりそういう話を聞かないんですが、それはやはり、京都にいることの意義、ということになるのでしょうか?

塚本:
そういう質問をいただくことが多いですね。堀場さんのところはちょっと違うと思いますが、われわれも、京セラさんやオムロンさんも、京都出身ではないのですが、京都で事業を始めて成功を収めました。しかし、われわれが大阪や東京で創業していたら、大手さんに潰されていただろうと思うんです。

財部:
それはなぜですか。

塚本:
京都の企業は、旧市街の外にある任天堂さん然り、だいたい外から来て、昔から旧市街の中にある伝統産業の邪魔をせずに、うまく一緒にやってきました。だから今がある、ということをよく認識されているのだと思います。オムロンさんは社名を京都の「御室」(おむろ/仁和寺の別名)から取られていますし、京セラさんにしても、稲盛さんは鹿児島のご出身なのに「京都セラミック」という社名で創業されています。だから京都に対して、ある意味で「強さ」を感じているのでしょうし、「京都で創業したから今がある」ということで、あえて外には出ていかないと考えられているのでしょう。

財部:
なるほど。

塚本:
それと堀場君と僕とは、個人的にとても親しくしているんですが、堀場君は子供の頃にお父さんが創業されたので、彼が僕の同級生の中で唯一の「坊ちゃん」だったんです。堀場君は、誕生会には蝶ネクタイをして、ブレザーを着てる子で(笑)。僕たちが小さい頃は皆、親のセーターをほどいて、また編み直して作ったような服を着ていたんですけどね。

財部:
塚本さんもそうだったんですか。

塚本:
ええ。僕が生まれた頃、父は創業していましたが、今のような会社ではありませんでした。僕が小学校4年生ぐらいの時に社宅が別にできて、その頃から家族が、会社とは別のところに住み始めたので「商売が大きくなったんだな」と感じたんです。

財部:
そうですか。塚本社長と堀場社長には、創業者であるお父さんがいらっしゃって、お2人とも、日本経済の中で一時代を画した方ですよね。そういう家庭に生まれたことからくる難しさ、あるいは良さは、どんなところにあると思われますか。

塚本:
そこはどうかはよくわかりませんね。少なくともウチの場合、会社が上場した頃から、いわゆる「塚本家の会社」という意識はなくなったと思います。今も、当家で所有しているワコールの株式は1%もありません。ですから僕には、もともと「創業家として」という意識はないんです。ですが、たとえばソニーの盛田さんやトヨタ自動車の豊田さん、あるいは堀場君のようなところは代々続きますから、創業家兼オーナーという感じで、会社の株式もたくさん持っていらっしゃるでしょう。だからかえって、それを受け継いでいくのは結構大変だろうなあと思うんです。僕はその意味では、逆に気楽ですよね。

財部:
そうなんですか。

現地生産・現地販売を「現地主導」で行う

塚本:
それからウチの場合、海外での成功という面でも比較的、開き直ったところがあるようです。最初の頃は「日本向けの製品を別の国で安く作るんだ」ということで、海外に工場を造ったんですが、「これから会社を伸ばしていくためには海外販売をやらなければならない」といって早期に方向転換しました。(一般に海外生産、海外販売ということになると)為替など、いろいろな問題が出てくるものですが、そういう意味では「現地生産・現地販売」が最もリスクが少ないですよね。

財部:
そうですね。

塚本:
ただし現地生産・現地販売ということになると、(現地の)生産部門で、われわれの品質でやっていかなければなりません。でもわれわれは、いわゆる縫製技術であるとか、工場経営という面で指導はしても、現地における生産や販売は、基本的に現地の人に任せてきました。中国やベトナムで現地法人を立ち上げた時にも、当初は日本から指導に行きますが、そのあとは駐在員を2、3名置くぐらい、というのがほとんどなんですね。

財部:
ほお。

塚本:
その意味で、たとえば人件費が「日本の20分の1」だということで中国に進出し、結果的に失敗された企業さんは、日本並みの生産性や日本並みの(QC)書類を早急に求め過ぎたのではないでしょうか。その点、われわれの場合、海外の現地法人では、実際の仕事はすべて現地の人々が行っていますし、生産、書類も彼らに任せたうえで「まずは物をきちんと作ってください」と話しています。そのうえで「でも、こういう書類をきちんと作れば管理しやすいですよ」ということを、われわれのオーダーとしてではなく、「こうする方が皆さんにとって効率的になりますよ」というニュアンスで、時間をかけて教えていく姿勢を取っています。

財部:
中国はほとんどローカルスタッフに任せているんですか。

塚本:
基本的にはそうですね。現在、中国における当グループの(研究開発)機能を上海に集約(ワコール中国人間科学研究所有限公司)しているので、こちら側の人間もそこにいますが、実際の生産工場である北京(ワコール中国時装有限公司)や大連(大連ワコール時装有限公司)、広州(広東ワコール有限公司)などでは、現地の皆さんに基本的に運営を任せています。

財部:
北京への進出は1986年(北京ワコール有限公司を設立)と、非常に早かったですね。

塚本:
そうですね。

財部:
私は、天安門事件(1989年6月4日、中国共産党中央が、北京・天安門広場などで民主化を訴える学生や市民を弾圧した事件)が落ち着いた92、3年頃に初めて中国に取材に行きました。当時はまるっきり今とは違う、まだ古い中国の時代で、ワコールさんの現地法人も見せていただいたんです。

塚本:
まあ、あのときは失敗したんですけどね。北京市政府と一緒にやったので、ビジネスがあまりうまくいかず、「独資」(中国語で「単独資本」の意)にするまでに時間とお金がかかりました。逆に、独資になってから、非常にやりやすくなりましたし、内容も良くなりましたね。

財部:
ええ。たしかに当時、ワコールさんの北京法人に「厳しい」という話を聞いた覚えがあります。でも、そういう経験を経なければ、中国ではなかなかうまくいかないですよね。逆に、中国ビジネスでは、最初からうまく行くことの方が珍しいかもしれません。