株式会社島津製作所 矢嶋 英敏 氏
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財部:
ええ。

矢嶋:
でも僕は、「こんなときにアメリカから帰ったって、刺身のツマくらいにしかならない」と判断したわけです。ちょうどその時、あるアメリカの医療機器の会社で社長が交代したので、アメリカ中の代理店の社長を100人ぐらい集めておいて、新社長を彼らに紹介するというミッションが僕にはありました。ですから、「田中君がノーベル賞を取ったからといって、しっぽを巻いて日本に帰るなんてできない」と思ったんですが、その決断はやはり正しかったですね。

財部:
それはやはり、矢嶋さんならではの「セールスマン魂」ですか?

矢嶋:
あれは、勘ですよ。僕は10月10日に日本に帰ってきたのですが、9日にアメリカを発つとき、JALのロサンゼルスの人たちが日本から取り寄せた新聞を全部くれまして、それを機内で読んで、「へえー」と思っていました。それで飛行機が日本に着き、エントラスゾーンが開くと同時に、マスコミがドーッと入ってきて、パチパチ写真を撮り始めたわけですよ。

財部:
その当時、会長は、田中さんをご存じだったんですか?

矢嶋:
僕は98年に社長になった時、イギリスのマンチェスターにあるKRATOSという会社に行ったんです。するとそこに、彼が1人でポツンと、大きな装置の傍にいたんです。で、その時にマンチェスターに来ている日本人5、6人と中華料理を食べたのですが、そこに田中君も入っていたので、覚えていました。

財部:
ああ、そうなんですか。

矢嶋:
彼は非常に物静かな雰囲気の人物で、まさか彼が、ノーベル賞をもらうなんて、当時は夢にも思わなかったですね。

財部:
その後、田中さんの社内での存在や影響は、どうなったんですか?

矢嶋:
そうですね、彼のおかげで社内が非常に元気になったことは確かです。でも田中君自身はそれまで質量分析機の研究をしていたんですが、彼の作った分析機は1台しか売れなかった、という事実もあるわけですよ(笑)。

財部:
1台しか売れてないんですか、なるほど。

矢嶋:
ええ、アメリカのカリフォルニア州の南部にある『City of Hope』という病院にね、1台売れたっきりなんです。しかし、その彼が発見した質量分析のプロセスが学会に発表されてから、彼の論文に書かれた理論が活用されて、そういう装置がどんどんグレードアップしていったんです。その開発の中心となった先生が、ドイツに2人おられまして、彼らが非常に真面目に「これはコウイチ・タナカの発見によるものだ」ということを学会で発表したので、それがノーベル財団の目に留まったらしいんです。

財部:
なるほど。

矢嶋:
それからまた、全米質量分析学会というのがありまして、そこの会長をやっておられた方が、たしか1983年に日本に来られたんです。それでその先生が、「タイムオブフライト型」と呼ばれる「飛行時間型」の質量分析装置では、それほど多くの分子を測ることはできない、という講演をした。それに対して田中君が、「そんなことはありません。私は、3万5千個ぐらいの分子を、ちゃんとタイムオブフライト型の装置で計測することができました」といって、そのデータを持って行ったんです。

財部:
そうなんですか。

矢嶋:
そうしたら、その先生は非常に驚いて、「それは大変な発見だ。英文にして、すぐに国際的に発表した方がいい」と田中君に勧めたんです。ですからそれも、結局は巡り会いであり、出会いなんですよ。その意味で、人間とはほんとうにわからないものだと思いますね。

財部:
ノーベル賞も巡り会い、というのは凄い話ですよね。

矢嶋:
そうでしょう(笑)。それが1983年の話ですから、2002年のノーベル賞受賞の17年ぐらい前に2人が出会っているわけです。そこで、その先生が「それは大変な発見だ」といわなければ、田中君も、島津製作所の1社員として「こういう現象を発見した」ということにしかならなかった。でも、そこで田中君が論文を発表したから、その成果が2人のドイツの先生に利用されて、質量分析機の性能が飛躍的に発展したんです。

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財部:
そのタイミングからするとですね、矢嶋さんが社長時代に行われた改革が実を結び、結果が出た。そして、それと同時に、田中さんがノーベル賞も取られたということですよね。

矢嶋:
ええ。

財部:
そうやって雰囲気もガラッと変わったわけですね。

矢嶋:
はい。まあ、僕よりも田中君がいったほうがいいかもしれませんが、めちゃくちゃに変わったと思いますよ。

財部:
最も大きく変わった部分はどこでしょうか?

矢嶋:
一番の変化は、会社が「罰点主義」から「花丸主義」に変わったことですね。要するに、当社は技術志向の高い会社ゆえ、研究部門に対する社内の期待感が非常に高いんです。ですから、たとえばある研究が半年遅れるということになると、技術者たちがいろいろなところから槍玉に上げられる。そうなると、彼らは自ら声を上げて物をいわなくなるわけです。その典型が「X番」という、社長がリーダーになり、1億円以上の開発費をかけてやる研究開発プロジェクトの停滞ですね。

財部:
「X番」ですか。

矢嶋:
つまりは、「これは素晴らしい研究開発項目だから、しっかり頑張りなさい」ということで、社長が座長を務めて、毎月その進捗状況をフォローする会議があるんです。そこでは、新規開発の申し込みもあり、プロジェクトの中断や中止という判断も下さなければならない。だから社長が毎回出席するわけですが、会社が厳罰主義でいると、「X番」に手を挙げる人がだんだん少なくなってくるんです。要は、できなきゃできないで怒られる、期日に遅れたら怒られる、予算がオーバーしたら怒られる、ということになると、無難にできる案件しか上がってこなくなり、全体的な「会社の価値」が落ちてくるわけです。これこそ罰点主義が持つ、最悪の欠点だったと思うんですよね。

財部:
はあ。

矢嶋:
そこで、研究開発の7、8割が、明日の飯が食えるような事業につながるものであるならば、海のものと山のものとつかないような研究も2、3割あっていい、という制度を作りました。つまり年間120億円の研究開発費のうち、8割ぐらいは、ちゃんと事業に貢献する事柄に使ってもらう。しかし、残り2、3割の30億円程度は最悪、捨て金になっても構わない。そのかわり、怠けたり、故意にお金を使ったりするようなことはいかんよ、というポリシーを打ち出したんです。

財部:
なるほど。

矢嶋:
するとそのうち、「会社が話していることは、どうも本当らしい」とか「あまり怒られなくなったらしい」ということになり、技術者がどんどん研究テーマを上げてくるようになった。それにしても技術者とは面白いもので、「残りの2、3割」にあたる30億円ぐらいの枠の研究テーマをどんどん上げてくるわけです。でもこれは、いまからすればとても感謝すべきことで、社内にもレベルの高い技術者が数多く残っていた、ということなんでね。

財部:
それは素晴らしいですね。

矢嶋:
そうなってくると、たとえば松井選手がバットにボールを当てた時のボールのひずみまでわかる高速撮影用カメラ、といった面白い製品ができてくる。実際、ゴム風船に針を刺してパーンと割れる、そのプロセスをすべて写せるという超高速カメラが完成し、いま大変な話題になっています。これなどは、非常に良い研究開発の成功例ですね。とはいえ、これが事業化され、お金を稼いでくれるようになるまでには、少し時間かかりますが(笑)。

財部:
なるほど(笑)。

矢嶋:
また当社では、「ガスクロマトグラフ」や「液体クロマトグラフ」などの分析用機器でもどんどん新製品ができていて、会社の業績アップに貢献してくれています。最近では、たとえば「液体クロマトグラフ」と質量分析機を一緒にした「LC‐MS」や、その質量分析を二重にした「LC--MS/MS」を作ろうというように、研究部門からどんどんアイディアが上がってきているので、基幹事業の幅が広がってきています。

財部:
そうなんですか。

矢嶋:
とはいえ、昔のまま叱ってばかりいては、研究開発はけっしてうまくいきません。だからといって、逆に技術者をおだてすぎてもいけないですから、人の使い方は難しいと思います。いずれにしても、やはり若い頃から、社員に重い課題を与え、それが達成するまで「頑張れ」と応援していく社風は、ぜひとも残したいと考えているんですけどね。

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財部:
いや、今日はさまざまな話をお聞きすることができました。最後に、少しプライベートなお話も伺いしたいのですが――。

矢嶋:
そうですね、僕はだいたい週に一度は必ずゴルフをすることにしています。この巨漢ですから(笑)、もう下手くそですけどもね。ゴルフをしていないと、体が弱っちゃうと思うから、ずっと続けています。でも、僕はクラブをクルクルとよく変えるもんですから、非常にROI(投資利益率)が低いんですけどもね(笑)。

財部:
そうですか(笑)。

矢嶋:
それから日曜日はですね――。私は家内を亡くしたものですから、まあ、娘とどこかに出かけるとか、おいしいものを食べに行くとか、食いしん坊な生活ばかりしています。

財部:
娘さんとは、ご一緒に住まれているんですか

矢嶋:
いいえ、娘は東京に勤めているものですから、私は京都と東京を、行ったり来たりしています。京都にいるときは、だいたい土曜も日曜日も、ゴルフをやったり遊びに行ったり、外に出ていますね。ですから、家に閉じこもって読書に耽るとか、音楽を聴くという、高尚なことはあまりしていないですよ(笑)。

財部:
やはり、奥様には特別な思いがおありだったんですね。

矢嶋:
彼女は学生時代の友達というか恋人だったわけですが、やはり女房の代わりはいない、ということですね。ちょっとセンチメンタルなんですが、女房とは長い間、一つ屋根の下で暮らしてきて、お互いに理解し合い、積み重ねてきたものがある。ですからそこで、若いとか年を取ったということは関係なく、お互いにパートナーとして生きていけるんです。しかし、そんな積み重ねがない人と、パッと一緒になろうとも思いませんし、そういう方に巡り合ったこともないですね。

財部:
きれいな奥様でしたよね。

矢嶋:
本当にそう思うんですよ。

財部:
私も数多くの経営者の方と会い、さまざまなお話を伺いましたが、自分の奥様のことを、あれほど堂々と「綺麗だった」とか「大好きだった」と書かれている方は初めてです。

矢嶋:
そうですね。振り返ってみると、僕は30代の頃からほとんど日本にはいなかったし、島津製作所に入ったあと、1990年に役員にしていただいたんですが、その翌年に彼女は亡くなったんです。僕が役員になった時、彼女は非常に喜んでくれました。そして僕も、やっと子供達が育ち、これから少しは女房孝行できるかなと思ったときに、彼女は亡くなりました。ですから、なんだか悪いような気がしているんです。しめっぽい話で申し訳ないですね――。

財部:
いえ。でも社長、会長と歴任されて、会社もこのように好調になりましたから、奥さんはきっと喜んでおられますよね。ありがとうございました。

(2007年2月19日 千代田区神田錦町島津製作所 東京支社にて/撮影 内田裕子)