株式会社島津製作所 矢嶋 英敏 氏
宝物は、交友関係、YS−11の模型。…もっと読む
経営者の素顔へ
photo

「厳罰主義」ではなく「花丸主義」で会社の価値は上がる

株式会社島津製作所
代表取締役会長 矢嶋 英敏 氏

財部:
そもそも今回ご紹介いただいた三菱重工の西岡会長とは、どんなご関係でいらしたんですか?

矢嶋:
ご承知の通り、西岡さんは国産初の旅客機『YS-11』など、航空宇宙関連をずっと手がけてこられました。『YS-11』の開発では、フライト用に2機、加えて強度試験などを行うために2機の試作機が作られたわけなんですが、その試験担当を、西岡さんがずっとやっておられたんですね。

財部:
ほお。

矢嶋:
西岡さんは東大工学部を1959年に卒業し、三菱重工に入っておられるんですが、ちょうどその年の6月に、日本航空機製造という会社ができたんです。私は同年12月に同社に入りまして、飛行機のエンジンやプロペラなどの輸入部品の買い付け、つまり現在でいう購買部門に配置されました。そのとき、西岡さんは三菱重工さんの担当者という立場で、『YS-11』の試験をされていたんです。

財部:
そうなんですか。

矢嶋:
当時から、西岡さんがそういう仕事をされていることは知っていましたし、彼の先輩で、やはり三菱重工から日本航空機製造に出向されている方も結構いましたね。

財部:
なるほど。

矢嶋:
ところが、僕は『YS-11』ができたらすぐに、その輸出担当ということで営業に移りました。一方、西岡さんは輸送機の『C-1』など、次から次へと飛行機の開発・設計に携わっていたんです。それでその間、あまり交友はなかったんですが、彼がのちに名古屋航空宇宙システム製作所長にポンとなられて、「ああ、あの西岡さんか」ということで、また親密にお付き合いするような形になりまして。私もその頃には島津製作所に入り、京都に移っていましたから、一緒にゴルフをしたりお酒を飲んだり、非常に気軽に。ご承知のように、トップの人は案外、孤独でしょう?

財部:
そうですね、ほんとうにそうですよね。

矢嶋:
ですから、相手が僕なら、そのように何も考えないで付き合えるということで、彼も誘いに乗ってくれたんです。また、以前『プレジデント』という雑誌の一番最初に、交友のページがありまして、私からお願いして、2人で載ったこともあるものですから、仲良くさせてもらっていますよ。

財部:
やはり、一緒に『YS-11』の立ち上げに携わった連帯感は、特別なものなんですか?

矢嶋:
そうですね、私たちはやはり『YS-11』が、ああいう形で「『儲からないからやめた』ということでよかったのか?」という、同じ考え方を持っているものですから、ついつい思い出話にも花が咲くわけです。もう、年も年なんでしょうけれど(笑)

「日の丸の飛行機」を世界に売り歩いた日々

財部:
いまの『YS-11』の話ですが、矢嶋さんは西アフリカにも営業に行かれていますよね。私も海外のいろいろな場所に取材で出かけていますが、やはり現在でさえ、ちょっと途上国行くだけでも大変です。それがあの時代に、アフリカに飛行機を売りに行かれたわけですから、想像を絶する話ですよね。

矢嶋:
そうですね。

photo

財部:
しかも、会社からは「5機売るまで帰ってくるな」といわれている。その時の体験が、ご自身の「背骨」になっているというお話を、矢嶋さんはいろいろな場所で話されているわけですね。

矢嶋:
ええ、やはり『YS-11』という飛行機は、戦前戦後を通じて初めての国産旅客機ということで、さまざまな問題があったんです、たとえば機体の値段が高いとか。また、たとえば降着装置の「脚」を作る際、「ホグアウト」といいまして、非常に大きなアルミのインゴット(鋳塊)から部品を成形していくんですが、その時に金型につける「目」(たとえばプレス加工で、金属の板材が上から下に伸びていく場合、金型の仕上げのやすりがけは、必ず上から下の方向で行う。上下を往復してもいけない。その際、斜め45度程度でやすりがけを行うと、板材がスムーズに伸びる「目」ができる)というのがあるんです。当時は英語を話す人が少なかったので、こうしたことをどう説明するのか、という問題もありました。

財部:
そうでしょうね。

矢嶋:
実際、英語が達者な商社の人に販売をお願いしたんですが、彼らもやはり、技術的な話になるとなかなか難しい。したがって、こちらとしても「このように話してもらいたい」と思っても、他社の方ですからどうしても遠慮がちになる。そこで「誰かいないのか」ということで、僕が引っ張り出されて、飛行機ができるまでの間、いろいろと叩き込まれたんです。

財部:
なるほど。

矢嶋:
そのお陰で僕は、ただ機器のスペックをもらい、それに合う部品を買うことだけが購買の仕事ではない、ということを学びました。それから、当時、三菱重工さんや川崎重工さんから出向していた技術担当者と、さまざまな交流もできました。玉川グランドを借りて野球をやったり、そのあとで『トリス・バー』にいって飲んだりとか、そんなことを通じて、皆がとても仲良くなったんですね。これは何も私だけではなく、会社自体がさまざまな企業や団体から出向してきた人の寄せ集めでしたから、割に若い人たちの間にも、自分の会社のためではなく「俺たちが日の丸飛行機を作ろう」という使命感がありました。

財部:
そうなんですか。

矢嶋:
ところが、最初は飛行機が全然売れなかったんです。当時、営業部隊の長に、太田稔さんという方がいらしたんですが、彼は『隼』という飛行機を設計された、飛行機の技術屋としては有名な人で、中島飛行機(富士重工の前身となった航空機メーカー)の出身でした。ところが彼は、やはり技術者だから販売のことはよくわからない、ということで、一高・東大出身で外務省に入り、2年後に商社に移った遊佐さんという方が、40数歳で営業担当として来られたんです。

財部:
はい。

矢嶋:
遊佐さんは厳しい人で、たまたまどういうわけか、僕は最初に彼と喧嘩をしてしまった。ところがどうも、彼の厳しさと、心の底にある思いは別のものだったようで、遊佐さんは僕のことを「ちょっと若くて生意気だけど、使えばものになる」と思ってくれたらしいんですね。