株式会社赤福  代表取締役社長 濱田 典保 氏
好きな場所:神宮神域(特に夏の早朝)
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先祖代々、苦労を乗り越えながら304年の歴史をリレーしてきた

株式会社 赤福
代表取締役社長 濱田 典保 氏

財部:
今日はサンヨー食品の井田純一郎社長からご紹介をいただきました。

濱田:
井田さんとは、若手経営者の会であるYPO(Young Presidents' Organization)で知り合いました。井田さんは早生まれなので学年は1つ上ですが、同じ昭和37年の寅年生まれで、親しくさせていただいています。

財部:
赤福さんも加盟されている、伝統企業の国際組織であるエノキアン協会は、創業以来200年以上の歴史を持つ企業しか入れないということですね。日本では赤福さんのほか、虎屋さん、1669年(寛文9年)に金物商として創業した岡谷鋼機(名古屋市)さん、約1300年の歴史を持つ法師温泉(石川県小松市)さんと月桂冠さんが加盟しています。

濱田:
全部で5社ですね。日本で創業200年以上の企業はもっとありますが、本部がパリで入会するにも紹介が必要だということもあり、日本企業が入るには少し敷居が高いかもしれません。おもにヨーロッパで総会を行っていて、10年に1回だけ日本に来てくれるのですが、当社もたまたまその時に合わせて入らせてもらいました。(メンバーは)ヨーロッパでも歴史が古くて財務内容が良く、しかも同族経営がずっと続いている企業。同じような環境にある人々が情報交換をしたり勉強会を行ったりするという意味では、YPOと一緒です。

財部:
エノキアン協会になると、雰囲気は違いますか。

濱田:
そうですね、やはり違います。食品会社が多いのですが、金融会社を経営している方もいます。向こうでは同族で金融業を手がけることが結構あるようですね。

財部:
個人銀行家であるプライベートバンカーは、同族で経営していることが多いですね。

濱田:
その意味で、同族とはいっても日本とは少し雰囲気が違います。でも突き詰めていくと、たとえばお互いに守り合う部分などについて、ヨーロッパ企業も日本企業も、本質的には同じようなところがあるかもしれません。得てして日本では、外国企業といえばアメリカ的な割り切った考え方の企業というイメージが強いですが、エノキアン協会に加盟しているメンバーは、日本の古い伝統的な企業に非常に近いような気がします。

財部:
決してネガティブではない意味で言うのですが、リーマンショック後の対応が良いか悪いかは別にして、日本の不良債権処理は10年以上の歳月を要したわけです。私はそれをずっと批判し続けてきました。痛みがなるべく急激に広がらないように、少し先送りをしながら問題が解決するのを待ち、最低限のダメージでしのいでいこうという意味で、それは極めて日本的な解決方法です。ところが、アメリカ人は論理もさることながら、彼らの資質として、もう駄目だと思ったら一気にかたをつけてしまいます。

濱田:
そうですね。

財部:
今回のヨーロッパの金融危機はリーマンショックが発端ですが、アメリカはリーマンをつぶした直後、メリルリンチをバンクオブアメリカに吸収させ、AIGに多額の公的資金を注入し、ウォール街の投資銀行を総じて商業銀行にさせた。このように凄まじいスピードで問題処理をしました。一方、ヨーロッパでは銀行を含めて、不正を隠しているわけではなく、ヨーロッパの銀行法自体が、不良債権を自ら認定し処理すればいいことになっているので、不良債権処理が遅々として進まず「まずは、このあたりまででいいか」という、日本と近い感覚になるわけです。

濱田:
感覚が近いですよね。そのように、ややソフトな考え方があるから企業も続いていくのだと思います。今財部さんがおっしゃった、アメリカのようにズバッとやるような発想だと企業は長続きしないでしょうし、いきなり経営陣が変わったりするようでは、企業文化も育ちません。

財部:
育ちませんね。アメリカの倒産法は、とりあえず手を上げれば倒産認定されて、そのまま経営は継続しますが、経営者は交代しますので、会社の中身も必然的に変わっていきます。

濱田:
「欧米」と一口に言っても、企業文化はかなり違いますよね。だから、日本とヨーロッパに200年企業というものが存在しますが、アメリカにはないわけです。おそらく日本企業とヨーロッパ企業とのあいだに、何か通底するものがあるのだと思います。

「街道筋の餅屋」がたどった304年の歴史

財部:
京都には古い伝統のある店舗や会社が数多くあります。でも愛知県や三重県、岐阜県など、この界隈には、京都ほど目立ちませんが、伝統ある会社がかなりありますね。

濱田:
そうですね。先の岡谷鋼機さんも名古屋でずっと頑張っておられます。また、当社も創業304年ですが、名古屋にある両口屋是清さんはかつて尾張藩の御用菓子を務め、370年以上の歴史があります。菓子屋に歴史が長いところが多い理由として、城下町に「茶の湯」の文化があったということが1つ挙げられると思いますが、当社はそういう世界とは少し異なり、街道筋の文化を受け継いでいます。

財部:
街道筋の文化というのは面白いですね。昔は、命懸けとまでは言わないにしても、皆が大変な思いをして「お伊勢参り」に出かけたわけですから、確かにその必然性があります。

濱田:
そうですね、馬やかごを使えたのは一部の人だけで、全国から多くの人が、本当に体を酷使して街道筋を歩いてきました。そのため、街道筋で売られていた餅も、場所によっては携帯や持ち運びに適したものになっており、形にもそれぞれ機能性があります。その点、「赤福」は持ち運びには向きません。今でこそ箱入りですが、昔はその場で食べるだけで、「お伊勢参り」の終着点だったので、そういう形になったのだと思います。

財部:
なるほど。

濱田:
また、餅を箸で食べるにしても、本来なら餡は餅の中に入っていた方が食べやすいのに、なぜ餡が餅の上に載っているのかというと、おそらくこれが、一時期にたくさんの人が来た時にサービスしやすい形だったからでしょう。実際、お寿司をぎゅっと握るようにして(箱に餅を)入れますから、慣れた従業員たちは、本当に作業が速いですよ。

財部:
それは意外ですね。これは、基本的に「握り」の形なのですか。

濱田:
握りです。商品をスピーディーにどんどん出せるような形になっていますから、ある意味でファストフードとも言えます。「赤福」はそういうルーツを持っていますので、企業方針としては、伊勢名物から離れないことを第1にしています。基本的に伊勢の本社工場で作り、名古屋や大阪など、その日のうちに店頭に並ぶエリアまでにしか商品を出しません。1カ所で作っているので、物流の問題もありますが、(そのエリアを越えると)伊勢の食文化から離れてしまうので、そこはこだわりたいと思います。

財部:
御社の長い歴史の中では、従来の方針を転換してはどうかという議論も何度かあったのではないですか。

濱田:
実を言えば、名古屋・大阪エリアに「赤福」を出したのはごく最近で、父の代になってからです。当社は私で11代目ですが、9代目までは伊勢だけでした。戦後になって、全国から伊勢参りに来やすくなったので、「赤福」も伊勢名物としてもてはやされるようになり、名古屋・大阪に近鉄沿線で商品を持っていったのです。(伊勢参りの)帰りに売店で買いやすいとうことで、近鉄の売店さんとお付き合いが始まったのですが、今はそこまでが限界で、それ以上は多分出さないでしょう。やはり伊勢名物、伊勢のお土産というスタンスは崩せません。

財部:
「赤福」はほかに、どんな点が以前とは変わっているのですか。

濱田:
昔は、お土産物を隣近所の皆さんと一緒に食べるという習慣があり、20個入りがよく出ました。こちらの「銘々箱」は全部2個入りで、現在の主流です。今は(個人が)それぞれ食べることが多く、皆で(お菓子を)取って食べるという時代ではありません。この辺は、時代の流れやお客様の用向きで変わってきています。

財部:
実は、名古屋や大阪で赤福を見るたびに「小さいものがあればいいのに」と、本日一緒にお邪魔している内田裕子とよく話していました。帰りの新幹線の中で、おやつに食べたいのです。ところが電車の中で、20個入りを2人で食べるのは少々無理があります。そこで私たちは、勝手に「ミニ福」はないものかと冗談を言っていました(笑)。

濱田:
車や電車の中で食べてもらうには、8個入りが1番良いでしょうね。でも今は伊勢に生産を集中し、全部をその日のうちに配送していますので、なかなか生産が追いつかないのです。

財部:
もう一方で、企業としての発展や規模の拡大についてはどうお考えですか。

濱田:
今も申し上げましたように、われわれは基本的に伊勢名物のスタンスは崩しません。でもそれだけではパイが限られますので、外から多くの人に伊勢に来てもらうことを、地元企業としての戦略に掲げています。伊勢は集客産業の町ですから、自ら集客をすることによってマーケットを広げていく必要があります。その意味で、伊勢に魅力を蓄積し、外から流入してくる人を増やすというのが「おかげ横丁」を作った理由です。当社の関連企業はおおむね「伊勢に来て楽しんでいただく」とか「伊勢でおいしいものを食べていただく」ことに関わっており、当グループの基本戦略もそこにあります。

財部:
「おかげ横丁」は本当に成功しましたよね。

濱田:
1993(平成5)年の第61回神宮式年遷宮の時に開業したので、もう18年になります。伊勢神宮では20年に1回遷宮が行われますが、ちょうどその時に地元のインフラも整備され、企業としては絶好の投資のタイミングです。実は「おかげ横丁」ができる前、門前町は寂れていました。交通が非常に便利になり、人の動きが活発になったぶん、かえって伊勢は通過される存在になってしまったのです。そこで「観光客の皆様にお金を使ってもらうというよりも滞留時間を伸ばしていただき、時間をゆっくり使ってもらえるような街作りができないか」をテーマに掲げました。その結果できたのが「おかげ横丁」です。