株式会社学究社 河端 真一 氏
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子供たちは、信念ある大人のリーダーシップを求めている

株式会社学究社
取締役兼代表執行 河端 真一 氏

財部:
今回ご紹介いただいた、永谷園の永谷栄一郎会長とのご関係についてお伺いしたいのですが。

河端:
彼との付き合いは、もう20年以上になります。日本アイビーエムの椎名武雄相談役が、「椎の実会」という会を主宰しておられて、その頃からの知り合いです。一緒に歌舞伎を見に行ったり、アフリカ旅行も行きました。

財部:
本当に、プライベートの友人に近いようなご関係ですね。

河端:
まったくそうでしてね。

「わが青春の野心」を胸に、19歳で起業

河端:
私がここを始めたのは1972年9月。私は1951年生まれですから、当時はまだ大学1年生でした。当時は国立学院と言ったのですが、その頃のビラが、あれなんです。

財部:
学生は、家庭教師のアルバイトなら普通にやると思いますが、大学1年生でいきなり学習塾を設立されたということは、最初から明確な考えがあったのですか。

河端:
ええ。それはもう、確信犯的にありました。私はもともと京都出身ですが、小学4年生の時に東京・国立市に一家4人で移り住みました。それで小学校、中学校、高校と全部公立に通い、親の姿を見ている中で「サラリーマンはちょっと辛いなあ」と思ったのです。私の高校時代の文集には「わが青春は野心のみ」とありまして、「野心」の2文字が大きく書いてあります。もともと、そういう山気が強かったのでしょう。

財部:
なるほど。

河端:
大学に入った時に、親戚から5万円のお祝いをもらいまして、それを元手に印刷屋に駆け込んでパンフレットを作り、9月には創業。ですから、まったくの「一本道」ですね。

財部:
高校の文集に「野心」と書かれた時、塾経営は頭にあったのですか。

河端:
ありませんでした。

財部:
では、その「野心」とはかなり抽象的なものだったのですね。

河端:
そうですね。強いて言えば、「サラリーマンにはならないぞ」という程度のものです。

財部:
その「野心」が塾という形になったのには、何かきっかけがあるのですか。

河端:
大学に入ってみたら、自分のできることと言えば、受験勉強を少しやったことぐらいしかありません。だから、それをもとにしてできる仕事は家庭教師だろうと思ったのです。そこで少しやってみたのですが、生徒のお宅まで伺うのは大変だから、こちらに来てもらおうというわけです。そういう、教育理念とはまったく無縁のきっかけですね。

財部:
とはいえ、河端さんは非常に短期間で事業を拡大されて、会社設立後最短・最年少の上場記録を更新されました。その間と今では、塾経営についての考え方は相当変わったのでしょうか。それとも、あまり変わっていないのでしょうか。

河端:
あまり変わらないですね。結局のところ、起業間もない大学1年の時には生徒が5人しか来なくて、赤字になりました。仕方がないので、慶應の先輩を頼って立川の伊勢丹で雇ってもらい、アルバイトを始めました。そこでお金を稼ぎ、塾につぎ込んだのです。それで「もう、こんなことはばかばかしいからやめよう」と思っていた矢先に、5人の生徒の内の1人が、親と一緒に伊勢丹へ買い物に来たわけです。

財部:
そうなんですか。

河端:
その時、私はエスカレーターの前で「いらっしゃいませ。セーター、カーディガン大変お安くなっております」と、呼び込みをしていました。すると生徒が「先生、何やってるの?」と言って近寄ってきて、まさに赤面汗顔の至りでした。ところがそこで、ようやく私の窮状を皆が知るところとなり、可哀想だということで、5人の生徒が2年目に、1人10人くらいずつ生徒を連れてきてくれたのです。

財部:
なるほど。

河端:
それで生徒数が50人ぐらいになり、ようやく経営が安定してきました。その後、私が大学3年の時には、生徒数が3倍の150人に増え、4年生の時には450人、大学を卒業する頃には1500人になっていた。だからその時点ですでに、「これが本業だ」と感じていました。大学1年や2年の頃には、学習塾は自分にとって「たまたま始めた仕事」だったのですが、「これこそ天職だなあ」と思いましたね。

財部:
どういう部分で「天職」だと感じられたのでしょうか。

河端:
今、考えると本当に赤面の至りですが、生徒たちと年齢があまり離れていないにもかかわらず、私は子供たちに「人生とは何か」「学問とは何か」と語っていました。私は大学時代に学者になりたいと思っていましたが、「でも、こうやって塾を始めたのだし、それがとても楽しいから、学者への夢はわが社名のみに留めよう」ということで、学究社という社名にしたわけです。

財部:
そういうことなんですか。でも、最初の5人の生徒が河端さんの窮状を見て「何とかしよう」というのは、ある意味分かりますが、そこから「倍倍」の勢いで伸びていったのはなぜですか。

河端:
それは当社に限らず、私どもの業界の上場企業すべてに言えることだと思います。当時の塾というのは、退職した先生方が、老後の収入の足しにするために始めたところが多かったのです。でも私はその頃若かったし、母校・立川高校の水泳部の同輩や後輩を集めてきて、体育会系の厳しい指導も行っていました。当時、そういう塾はほかになかったですから、非常に受けたんですね。

財部:
ええ。

河端:
そういうわけで、私は学生でありながら、ある地主さんのご厚意で自前の教室を建てていただきました。そこに200人規模の教室を造り、そこに自分の教えている生徒を全員入れたのですが、埼玉や神奈川からも生徒が来ていました。そのぐらい人気があったんです。

財部:
指導は、ずいぶん厳しかったのでしょうね。

河端:
そうですね。もちろん、相手との適切な距離感と人間関係があっての厳しさではありますが、言葉の上ではスパルタでしたから、そういう面でのカリスマ性はあったでしょうね。