味の素株式会社 代表取締役社長 最高経営責任者 伊藤 雅俊 氏

財部:
昨年12月には、グループ会社の味の素製薬から輸液・透析事業を分割し、富山市の医薬品メーカーである陽進堂さんと合弁会社を設立しています。

伊藤:
医薬品事業は約800億円の仕事で、そのうちの200億円が輸液・透析事業です。(輸液は)アミノ酸や電解質などさまざまな栄養素が入っている体液のようなもので、味がついてはいませんが、ヒトの栄養になります。アミノ酸を原料に利用できる商品なので(当グループで)作っていましたが、最近はコモディティになって利益が出ない状態でした。今、これなら全体を伸ばしても良いという事業ポートフォリオを構築している最中で、そのためには売上が多少下がっても良いかと思っています。

財部:
そこが凄いですね。2012年5月に発表された、アサヒグループホールディングスに対するカルピスの株式譲渡は衝撃的でした。この「経営者の輪」でも同社の泉谷直木社長にお話を伺ったのですが、「カルピスさんについては、本当にありがたいものをいただいた」と非常に喜んでおられました。一般的に経営者の方は、自分の在任中に具体的な成果を上げたいと考えるもので、「売上を落としても良い」という発言はなかなかできないと思います。『カルピス』にしても、あれは切り離すべきものだったのですか?

伊藤:
そう考えています。もともと、我々が主に扱うドライ商品と比べて、液体は重いので物流費が高いのです。また、飲料の専用の設備が必要なため、加工食品の割に固定費がかかるので、飲料分野には下請け専門の会社が数多くあるわけです。そうなると、どこでも誰でも(生産が)できてしまうのですね。

財部:
だから利益率が高くありませんね。

伊藤:
はい。コミュニケーションの負担も非常に高い。われわれはなるべく、技術面で自分たちしかできない領域を作っていきたいと考えており、それがビジネスの拡大につながると思っています。ですから自分たちの得意なところでビジネスを展開し、お金もそこに使おうと考えているのです。社長は何年かで交代しますが、会社はずっと続いていくので、成果がどこで出ようが、その間の出来事です。

財部:
今回いろいろと資料をいただきましたが、日経新聞の「こころの玉手箱」の記事が非常に印象的でした。あの記事の中に出てくる古い木炭アイロンは、伊藤さんの心にどう引っかかったのでしょうか。

伊藤:
私も家内も食器類が好きで、休日にお寺の境内で催される骨董市などによく通っていました。東京・原宿の東郷神社や上野公園にある花園稲荷神社などに遊びに行き、お宝発見とまではいかないものの、(骨董品を)少し買っていたのです。以前、たまたま群馬県の草津温泉に行った時、そういうお店のウインドウに綺麗な形をした骨董品が置いてありました。飾り物に良いなと思って聞いてみたら、「これはアイロンです」というのです。

財部:
アイロンとは分からずに、その形状が気に入ったのですね。

伊藤:
何か船のような形をしていたのです。それほど値段が高いものではなく、聞いたら売ってくれるというので、その場で買いました。木炭アイロンにはタンチョウのマークが刻印されていて、蓋を開けて炭を入れ、蓋をして使うようになっています。昔「火のし」と言う、炭を入れて使う小さなフライパンのような道具があると聞いたことがありました。

財部:
そうですか。

伊藤:
うちに来たスイス人が、そのタンチョウ印の木炭アイロンを見て「これは見たことがある」と言うのです。彼はフィリピンに何年か駐在しており、「今度(フィリピンに)行ったら買ってくるよ」と言って、本当に買ってきてくれました。1つは、タンチョウ印のものと形は同じですが、マークのないフィリピン製の木炭アイロン。もう1つは「火のし」のような取っ手がついた鉄のフライパン。それから(私も)、香港の骨董街であるキャット・ストリートに行った時、「福」の文字がひっくり返ったマークのついた中国製の木炭アイロンを見つけました。すると「タイにこんなものがあった」とか、またしばらくすると「アゼルバイジャンに行ったらこういうものがあった」と言う話が出てくるのです。ロシア製の木炭アイロンはロシアらしい形をしていて、トルコ製はトルコらしく、日本製は日本的。木炭アイロンはもともとヨーロッパから入ってきたようで、基本形は同じでも地域によって微妙に違うのです。

財部:
そのお話に、味の素さんの「確かなグローバル化」を重ね合わせることができるような気がします。アイロンをかけるという機能はグローバルに誰もが使う一方で、国ごとにそういう広がりが出てくるのは、先の伊藤社長のお話と重なる部分が大きいですよね。

「精神一到何事かならざらん」

財部:
ここで、事前にご回答いただいたアンケートを拝見させていただきたいのですが

伊藤:
「今、はまっていること」は、「料理」の括弧の中に書いたフレッシュ・ナツメグです。普通、ナツメグは瓶に入っていて、ハンバーグを作ったりする時に使うのですが、そういうものではありません。最近バングラディシュで見つけたのですが、市場に行ったら生のナツメグが300円ぐらいで売っていました。周りが硬くて中に種が入っていて、コロコロしています。持って帰って使ったら、(料理が)素晴らしく美味しいのです。香りだけではなく、味にまで影響していました。

財部:
これはどう使うのですか?

伊藤:
肉料理に使ったり、ハンバーグやハンバーグに類する料理の香り付けですが、味まで良くなるという効果があるのです。それ以来、できあがった料理に生のナツメグをすってかけて食べるのが癖になりました。高級な香水のような香りがして素晴らしいです。これは日本では手に入らないですね。

財部:
また、「好きな映画」として挙げて下さった『コーラスライン』と『ウェストサイド・ストーリー』が目を引きますね。

伊藤:
これは、皆さんが見るからなのですけれど。『レ・ミゼラブル』もこの間見たばかりです。娘に誘われ、家内と娘2人で行ったのですが、大感激して、家族4人で大泣きするのも良いものだと思いました。

財部:
私も泣きました。『レ・ミゼラブル』は映画も感激しましたが、私が初めてブロードウェイでミュージカルを見たのがこの作品だったのです。大いに感動し、涙を拭いて出てきたのですが、今回やっと映画でリターンマッチができました。

伊藤:
やはり歌は(映画よりも)舞台の方が上ですね。(『レ・ミゼラブル』は)25周年記念コンサートのDVDが出ていたので買いました。オーケストラをバックに舞台で歌うのですが、素晴らしいですね。ただ、映画は映画で別の趣があり、良いと思います。私も(映画を見て)あんなに早くから泣いてしまうとは思いませんでした(笑)。私はミュージカルが好きで、とくに『コーラスライン』は「皆1人1人違う」というあのテーマ曲が好きなのです。

財部:
人生を決めたのが、『コーラスライン』だと言うことですね。

伊藤:
ダンサーのオーディションを舞台で再現した映画『コーラスライン』も出ています。その作品は、あまりヒットしなかったのですが、素晴しかったですよ。やはり層の厚さと言うか、競争の厳しさと言うか、1人ひとりの力の差は本当にわずかなのだと納得しました。

財部:
味の素さんの社内のような感じですか?

伊藤:
実は、私は「NHKのど自慢」が好きなのです。職業にしても見た感じにしても、毎回出てくる人たちが本当に多様性に富んでいます。日本にはこんなにいろいろな人がいるのか、と思いますね。

財部:
ポップ・ミュージック界期待の若手シンガーであるマイケル・ブーブレが好きな伊藤社長が、「のど自慢」もお好きだというのも、なかなか多様性に富んでいますね。

伊藤:
好きなのですよ、あの人たちが皆生活している、という意味で。結局、われわれはこういう人たちがいるところで仕事をしているのですから。(「のど自慢」は)視聴率が10%以上もあり、なかでも50歳以上の視聴率が高いのです。私の家族は誰も見ないで、どこかに行ってしまうのですが。

財部:
それにしても、娘さんが映画を一緒に見てくれるというのは信じがたいですね。

伊藤:
『ウェストサイド・ストーリー』は、もともと高校生の頃に見て感動した作品。そんな体験があったので、子供たちをミュージカル好きにしたのです。今、仙台にいる息子も、彼が小学校5、6年生の時に日本に来たブロードウェイのミュージカルを見せたことがきっかけで、ミュージカル好きになりました。

財部:
ミュージカルは本当に良いものですね。

伊藤:
本当に芸術ですね。私は学生の時にサークルを立ち上げ、素人の創作ミュージカルを上演したことがあるのです。脚本あり、音楽あり、踊りありと言っても皆「素人芸」でしたが、それだけでは飽きたらず、劇場を借り、皆でお昼を食べながらパンフレットを作って広告を打つということまで、全部セットで行っていました。それ自体は面白かったのですが、とても大変でしたね。

財部:
かつて、人々が創作ミュージカルよりも演劇に走るような時代がありました。その時に、伊藤社長が演劇には行かず、創作ミュージカルを手がけたのはどんな理由なのですか?

伊藤:
もともと音楽が好きだったのです。父親もそうだったのですが、軽音楽が好きで、バンドを組んでいました。当時の流行りで音楽の方から入ったのです。

財部:
音楽から入られたのですか。

伊藤:
はい。私はミュージカルでも、音楽を担当していましたが、ミュージカル全体のマネジメントの真似事をしていました。一緒にやっていた仲間が劇団四季に入りたいと言うので、脚本を書いて新聞募集を行い、オーディションで人を集めるということもやりました。本人は劇団四季に入りたいという夢を捨て切れず、そのまま小説家になったのですが、彼らと一緒に音楽とドラマを手がけるミュージカルドラマバンドという組織を作ったのです。今思うと恥ずかしいのですが。

財部:
伊藤社長がお好きな音楽も、ニューヨークをイメージさせるものなのでしょうね。

伊藤:
マイケル・ブーブレもそうですが、エイミー・ワインハウスのような全然違うタイプの音楽も好きです。世界的なジャズシンガーであるTONNY BENNETTも今の彼が好きで、最近出ているCDを聞いています。もともとポップスやクロスオーバーと言った軽めのジャンルが好きなのです。

財部:
この辺は、私も非常に共通しているところがありますが、「良く聞いている音楽」というアンケートの回答に「アーティストの人柄」という理由が入ってくるのが凄いと思いました。こういう回答をいただいた方は初めてです。音楽そのものについて語られることはあっても、アーティストの人柄について語られることは、これまでありませんでした。

伊藤:
皆、人柄ですよね。TONNY BENNETTも今の人柄が良いのです。昔は二枚目であまり好きではなかったのですが、年齢を重ねて格好良くなりました。

財部:
その一方で、座右の銘に「精神一到何事かならざらん」という故事成語を挙げられています。

伊藤:
座右の銘ではなく「耳についている言葉」と言う方が、私にとっては正しいですね。小学校の時に、父親が書いて机の上に貼ってくれたので「耳についている」のです。(「人生に影響を与えた本」で回答した)『ああ無情』も、小学校の時に読んで印象に残っており、主人公のジャン・バルジャンの名前も耳に残っています。この本も、ずっと目の前に置いてあったので、座右の銘と同じように「耳についている」のだと思っています。

財部:
座右の銘にある通り、精神を集中して事に当たらなければならないのですね。

伊藤:
何事も、強い思いがないと果たすことができません。当社は、全く新しいことをセブン-イレブンさんと手がけたりしてきましたが、そういう時には目的意識、何をやりたいのか、何の役に立つのか、という最初の部分に強い思いがなければうまくいかないのです。もともと新しいことには反対が多く、「できない」とか「無理だ」とか「失敗したらどうするのか」と言って、7割の人が反対することはわかっています。でも、そういう強い思いを持っていれば、自ら情報を取って知識を得て、反対する人を論破したり、納得してもらうことができるのです。そういうことをいろいろ経験してきて、「精神一到」、すなわち精神を集中して何かをしたいと思えば必ずできる、本当に思えばできると実感しました。逆に、何も思わなければ、何もできないのです。

財部:
私は、先の木炭アイロンの話が非常に印象に頭に残っています。思いを強く持っていると、誰かが木炭アイロンの情報を持ってきてくれる、というのと同じですよね。

伊藤:
自分で関心を持つから、世の中の流れが見えたりするのですね。あるいは誰かが、「あなたは木炭アイロンがとても好きなようですね」と情報を聞きつけてくれる。つまり、強い思いがないと、やりたいことができないし、やりたいことがないのと同じ状況になってしまうのです。

財部:
「天国で神様にあった時、なんて声をかけてほしいですか」という質問への回答は、書き方も人それぞれですが、「もっと、笑って」というのは非常に印象的です。

伊藤:
「自分で思った通りにやればいい」と言われたら良い、ということですね。私の苦手なものは「わかりにくい書類」で、頭が痛くなるのですよ。ともかく「もう少し上手な日本語を書いてほしい」と言いたくなります。

財部:
そうですか。

伊藤:
若い頃、外国人と一緒にマーケティングの仕事をしていたのですが、英語には独特の思考体系のようなものがあり、そこがおろそかだと文章を読んでくれないのです。目的、目標、戦略があって達成がある。そして、予算、スケジューリングがあってレビューを行い、また目的に戻るということの繰り返し。その辺がごちゃごちゃになっていたり、戦術的な事柄が最初に書いてあるような文章は、最も駄目ですね。

財部:
最後に、伊藤社長の宝物は時計なのですね。どんな時計なのでしょうか?

伊藤:
父親らしい『グランドセイコー』の時計です。部長になった時にもらいました。実は時計は、私たちを見ているのです、私たちが時計を見ているのですが。時計に見られているから、きちんと掃除をして綺麗にしています。以前、2人の娘に時計を買ってあげたのですが、私がそういうことを1度も話したことがないのに、「もらった時計に、いつも行動を見られているようだ」と2人から言われました。作戦成功だと思いましたね。

財部:
戦略があったわけですね(笑)。今日は長時間にわたり、ありがとうございました。

(2013年5月14日 東京都中央区 味の素株式会社 東京本社にて/撮影 内田裕子)