味の素株式会社 代表取締役社長 最高経営責任者 伊藤 雅俊 氏

伊藤:
それまでの常識では、舌が感じる味覚には、塩味、甘味、苦味、酸味の4つがあると言われていたのです。(池田教授は)それ以外に、5つ目の味覚である「うま味」を発見しました。昆布だしの味が、アミノ酸の1つであるグルタミン酸によるものであることを特定し、それを「うま味」と名付けたのです。池田教授と知り合った当社の創業者 鈴木三郎助 (2代目)との産学連携が、味の素グループの原点。今話を聞くと成功談になってはいますが、事業をやり始めた当初は非常に大変だったのですよ。

財部:
そうなんですか。

伊藤:
いずれにしても(池田教授は)味覚の中で人類共通のものが、うま味であると主張したのですが、外国人にはなかなかそれが理解されない。化学的にそうだとわかっていても、あるいはアカデミックな世界ではかなりの人が理解していても。外国人が本当にそれを理解するようになったのは2002年のことなのです。

財部:
2002年というのは特定できるのですか?

伊藤:
マイアミ大学の研究グループが、人間の舌に、うま味(グルタミン酸)に反応するセンサーがあることを2000年に発見しました。舌の上にぽちぽちした部分がありますが、その中に味蕾(みらい)と呼ばれる器官があり、塩味や甘味などの味覚を感じています。味を感じる味細胞の集まりである味蕾の中に、うま味に反応する受容体があることがわかったのです。2002年にカリフォルニア大学サンディエゴ校の研究グループも、うま味に反応する受容体に関する研究論文を発表し、うま味への理解が世界に広がりました。われわれは「うま味」という日本語が、そのまま世界の共通語として通じるようにするための活動を続けてきましたが、外国人もオリジナルジャパニーズで「umami」と言うようになってきましたね。

財部:
私がブラジル味の素さんを取材させていただいた時にも、現地で「うま味」という概念がなかなか通じず、結局スープを作り、「このスープはおいしいぞ」というところから始めたという話を伺いました。今日どうしてもお聞きしたいと思い、また疑問にも感じたのは、味の素さんにはなぜこのようなカルチャーが生まれたのかということです。ブラジル味の素さんでも、多くの方が「(ここで)新商品の開発をしています」とおっしゃっていましたが、特に現地には化学者などの専門家がいるわけでもなく、現地の食文化に適した商品開発は現地の社員に委ねているということでしたね。

伊藤:
まさにその通りです。

財部:
おいしいスープも、味見を務めているのはブラジル人社員。「本社にはそういうことを報告しないのですか」と質問したのですが、「本社からは基本となる技術は提供してくれるが、何をどのように工夫するかは現場で考えればいい話だ」と私は理解しました。海外では何もかも、日本とは事情が違いますから、現場の人たちが知恵を働かさなければうまくいきません。その点、現場がこんなに自由闊達にやってしまっても良いというところが、味の素さんの凄いところだと思うのです。もともと、そういうカルチャーがあるのでしょうか。それともブラジルは、たまたま特殊な例だったのでしょうか。

伊藤:
それはカルチャーとしてあると思います。食べ物は非常にローカリティが高く、人はそれぞれ慣れた味があると、それを好むようになってしまうのです。たとえば日本人もそうですが、アジア人はうま味に敏感です。一方、われわれの仮説ではありますが、アメリカ人は砂糖や油でおいしさを感じる習慣がある。つまり、地域によって味覚に差があり、(さらには、それぞれ人が)好む香りや色も違います。ですから日本人が好きな食べ物でも、日本人以外は好きではないというものが、数多くあるわけです。

財部:
そうなのですか?

伊藤:
たとえばグループ会社のクノール食品でスープを販売していますが、アメリカ人が好きなチキンスープやトマトスープは、日本人にはあまり好まれません。日本人はコーンスープが好きなのですが、アメリカ人からすれば、コーンは牛が食べる飼料というように(認識が大きく)違います。また、アメリカのマヨネーズは、サンドイッチなどでパンに塗るスプレッド。ところが日本人は、マヨネーズをサラダなどで味や塩分のない野菜にかけて食べるので、日本のマヨネーズは酸っぱくて濃い味がします。そのため、向こうのものは味がよくわからない。だから日本人は(向こうのマヨネーズは)食べられないのですが、アメリカ人も日本のマヨネーズは嫌いです。一方、中国に行くと、彼らは生野菜を食べません。そこで(マヨネーズに)果物の香りをつけて、ディップソースのようにしながらフルーツにつけて食べる。台湾に行くと、(マヨネーズを)炒め物に混ぜて食べる。同じ食材でも、使い方がまったく違うのです。

財部:
味の素さんは、そういう味覚の違いや文化を受け入れるのですね。

伊藤:
(食文化は)その国その国で皆違いますから、同じように売ろうとしても売れません。たとえば日本では鰹節をベースにした風味調味料「ほんだし」を発売していますが、タイでは鰹節の代わりに豚肉で出汁を取るので、現地に好まれる豚ベースの風味調味料を作っています。ベトナムでも豚ベースの食べ物が多いので、豚ベースの風味調味料を出している。でもタイの場合は、テーブルの上に置いてあるトウガラシやナンプラーなどの調味料を適当に加えて料理を食べるので、元の出汁にそれほどフレーバーはつけません。一方ベトナムではそういう習慣がないので、(製品に)香辛料をある程度入れておくというように、国ごとに作り方を変えています。製品を作る上での基盤となる技術は日本の本社から提供し、現地では味覚に合わせて、各自で応用を行う」というのが、われわれのモットーで、それを判断するのは現地の社員。

財部:
私は、その後も多数の企業を取材していますが、ブラジル味の素さんを超える会社はありません。取材で会社に入ると、そこで「明るい会社だな」とか「暗い会社」だなという雰囲気がわかるのですが、海外に行くとそれが顕著で、ブラジル味の素さんは本当に明るかったのです。しかも現地社員も、日本から来たメディアの私たちに対して非常にフレンドリーでした。味の素さんだけが、ブラジル人も日本人もなく、外から来た私たちにもフレンドリーに接してくれるという、非常に素晴らしいカルチャーを持っていると思います。

伊藤:
良いことをおっしゃっていただきました。われわれは、そういう見方はあまりしませんから。

財部:
ある種、理想のイメージですね。社員の現地化とか「現地化のために、いかに社員に理念を伝えるか」と皆が言っていますが、「理念を伝えるより、まずそこでお互いに信頼関係ができているのが、ブラジル味の素さんの雰囲気ではないか」というのが私の認識になっています。

伊藤:
(ブラジルに進出してから)50年が経っているということもあるのかもしれません。現地社員が非常に重要なポジションで仕事をしていますし、(われわれは)さらにそれを推し進めようとしています。

財部:
味の素さんの方に会うたびに、「味の素の駐在員は、日本人同士で近所に住んではいけない。できれば違う町に住んでほしい。現地の人と生活を共にするのだ」と聞いたのですが、それは本当ですか?

伊藤:
そうです。「現地語を覚えなさい、日本人同士で同じマンションに固まって住むのは避けなさい」という考え方が基本にあります。とにかく現地語で話す。競争相手は英語で話していますが、われわれは現地語で話し、それで現地の食事を好きになろうというわけです。彼らは、自分たちの好きなものしか食べません。だから現地の言葉と現地の食事、現地の人(を知ることが大切)です。

財部:
つまり、中期経営計画に書いてあるグローバル人材とは、「英語を喋れる人材」とはまったく違うということですね。

伊藤:
コミュニケーションが好きで、日本語も立て板の水のように話す人は、どんな言葉を喋らせてもうまくなってしまうものです。器用な人は、ほかのこと(を覚えるの)も早いですよね。実際、社内外を問わず、現地語でやらないと仕事になりません。たとえば島の多いインドネシアには約180ヶ所の営業所があり、約1700人の社員が働いています。営業所は3つの支店組織に統括されており、日本人は支店長やエリアの販売マネージャーとして、数百名のインドネシア人の営業担当者を部下として日々、仕事をしています。現地の営業担当者はもちろん、商談相手の小売店の方々も現地語しか話せないので、現地語でなければ会話や指示ができません。現地の営業マンがマーケットに行き、間口の狭い店に足を運んで「売れ行きはどうですか」と会話し、売れた分を補充して代金をもらって帰ってきます。日本人の出向者も彼らに同行しながら、そのやり取りを聞いて売り方を指導しています。

財部:
社員の皆さんは、味の素がトップクラスのグローバル企業だということを理解して入社してこられるのですか? 私はエレクトロニクス業界も、味の素さんと同じようなことをもう少しやっていれば、ああいうことにはならなかったと思います。

伊藤:
(私たちが扱っているのは)普通の人が毎日使う消費財なので、普通の人が毎日買いに来る場所で仕事をしているのです。そうしなければ買っていただけません。当初は商品を置いてきて、「売れた分だけお金をください」という商売をした時期もありますが、市場に足を運んで仕事をすることが前提です。(当社では)入社してくる人の多くが海外志向で、そういう意味での心配はまったくありません。どこに配属されるかはその時々の状況で決まるので、タイに行ったらタイ語、ベトナムに行ったらベトナム語が必要になります。最初に国内で営業などの研修を行い、現地に赴きます。ただ外交官のように、習った言葉が一生役に立つかと言うと、そうはいきません。どこに行くことになるかわからないので。

財部:
日本では各社が「グローバル人材を育てたい」と言って研修などを行っていますが、(味の素さんの場合)何がコアバリューになるのでしょうか。

伊藤:
なぜ、こういうことが普通にできるようになったかと言うと、先輩のおかげです。最初に海外営業を手がけた人たちは、市場がどこにあるのかもわからず、電話帳もないような状況で仕事をしていました。人がたくさんいる街に行って、どこに市場があるのかを聞き、こういう袋入りの極小サイズの「味の素」を置いてきたのです。ビジネスホテルもありませんから、昔の日本の旅館のような所に泊まり、商品を売り歩いていました。そういう先輩たちの背中を見ながらやってきたのです。

得意分野を伸ばすためには、一時的な売上低下も厭わない

財部:
そのうえで、今年で完結する味の素さんの中期経営計画を拝見すると、2010〜13年度でグローバルカンパニーへの基盤を固め、その先に世界の食品メーカートップ10を目指すという明確な目標を掲げています。これについて、伊藤社長はどんな思いをお持ちですか。

伊藤:
国内も伸ばせると思っていますが、相対的には低いですね。一方、海外は全体的に4、5%は伸びていくでしょう。だから海外で仕事を続けていくことが重要で、商品、技術、研究、採算効率を、グローバルに戦える状態にしていかなければなりません。その目標の下に、グローバル食品メーカートップ10入りを達成することが目標です。グローバルトップ1、2、3の食品メーカーは凄いですが、グローバルトップ10と言えば、名前は誰でも知っていて、われわれにもある程度手が届くところですから、そこを目標に仕事を作っていきたいと思います。

財部:
グローバルトップ10入りについて、どんな見通しをお持ちですか。

伊藤:
2013年度までに土台を築き、14〜16年度までの3年間で形を作り、次の3年に向かっていきます。その先に、グローバルトップ10に手が届くのではないかと思っています。今の仕事の延長だけでは、グローバルトップ10入りが難しいかもしれないので、不連続に売上のトップラインを作っていくことを考えなければなりません。

財部:
計画の中で、ポイントとなるものは何でしょうか?

伊藤:
「成長ドライバーの育成」と「事業構造強化」の2つです。前者については、グローバル成長の促進とR&Dにおけるリーダーシップを確立することが、成長のドライバー。後者については、何でもかんでも作れば良いというのではなく、採算性が良い事業構造を構築していきます。その意味で、あまり得意ではない事業をやめたり、(得意な事業に)集中することが重要で、調味料や先端バイオ関連に経営資源を集中する一方、2012年10月にはカルピス社の全株をアサヒグループホールディングスに譲渡しています。