三井不動産株式会社 岩沙 弘道 氏

財部:
中国ではどんな事業を行っていますか。

岩沙:
今ニンポー(浙江省寧波市)でアウトレット事業を推進しており、2011年春に商業施設を開業する予定です。また上海では、マールー(上海市嘉定区馬陸鎮)という所で1,180戸の住宅開発を進めています。ほかにも、さまざまな計画を検討中です。ここまで来るのに時間が若干かかりましたが、それには理由があります。当社の海外事業で一番先行しているアメリカとシンガポールでは、ローカルパートナーが非常に信頼の置ける企業で、そういう相手と長く付き合い、共同事業を行ってきたことが、当社の大きな強みになっているのです。

財部:
ええ。

岩沙:
本当に肌感覚で、現地のマーケットの状況や変化あるいは価値を見分けられるのは、ネイティブの方しかいません。そこで当社は中国事業でも、ローカルパートナーとの連携を深めながら、現地の人材を確保してきました。現地法人化と現地人材の活用が、海外事業成功における大きなポイントです。中国は非常に大きな国ですから、現地の人材の重要性は高いと思います。

財部:
各地方で、皆違いますし。

岩沙:
ええ。ですから、中国全土をカバーできるようなローカルパートナーはいません。そこで当社も、まずは上海から始めたのですが、最近リサーチを通じて各地の状況をだいたい見定めることができたので、本格的な展開を始めたところです。これからウチの若手が中国で、中国の方と一緒になってどう仕事をしていくかが楽しみです。これはやり甲斐があると思いますよ。

財部:
そうですね。実は私も数日前に、上海での取材を終えて戻ってきたところです。今回は数カ月ぶりの訪問でしたが、リーマンショック以降、明らかに欧米先進国から中国、東アジアに大量の資金が流入して、中国の一般市民の所得が向上し、国自体が全く違うフェーズに入ったことが実感できました。

岩沙:
中国はまさに世界の市場になりつつありますね。それから中国政府は、国民生活を安定させ、将来に対する希望をいかに与えていくかというような課題に本気で取り組んでいます。そのことを強く感じますね。

財部:
今回、実は住宅関係についても少し取材してきました。そこで実感したのは、建物を造るだけなら誰にでもできますが、今後どんな住宅政策を行っていくのか、あるいはどんな方針に基づいて地域開発を行っていくかが中国の課題だということです。もっと言えば、高いハンドリングができるデベロッパーに、自国のゼネコンなどの担い手を育ててほしいというニーズを、中国は相当強く持っています。その意味で、今まで岩沙さんが日本で作ってこられた新しいビジネスモデルが、中国でも活きるのではないかと思いますね。

岩沙:
そうですね。やはり、中国ではまだイニシャルのハード中心の考え方の段階で、「経年優化」というような考え方を持っている人は少ないのではないでしょうか。

財部:
実際、もの凄い勢いで建物が劣化していますよね。

岩沙:
現地の住宅を見られてお分かりだと思いますが、かなり高価格帯の住宅街でも同じ形や色、高さの住宅が立ち並び、街並み・景観づくりといった発想はまだこれからです。当社のコーポレートステートメントではないですが、環境問題も含めて「都市に豊かさと潤いを」というステージをどう実現していくのか、という議論はこれからだと思いますよ。
デベロッパーの仕事である、暮らしを豊かにする安心安全な住まいづくりおよび街づくりを通じて、中国の都市が環境に優しくなり、CO2排出や水の問題もきちんとコントロールされるようになれば、それは日本にとっても非常に良いことだと思いますね。

財部:
そうですよね。

岩沙:
さらに、街づくりを通じて中国の人々の生活や暮らしがより豊かになることに貢献することで、日本という国に対する理解を広げることもできると思うのです。当社も、そういう使命感を持って取り組みたいと思います。先ほど財部さんもおっしゃっていましたが、世界中のマネーが今、中国を含めた東アジアに高い関心を持っています。その資金を活かし、アジアを世界の工場から世界の市場にしていこうとするプロセスの中で、世界中の企業や人材が、マネーをともなってアジアにやって来るのは間違いないですよね。

財部:
ええ。

岩沙:
そして今度は、世界中からアジアにやってきた企業や人材が、市場を通じて投資や資産運用を行うようになる。そのサービスをどこで受けるかについては、私は東京、大阪、福岡などの日本の主要な都市が拠点として選ばれなければいけないと考えます。やはりいろいろな意味で、安全安心でサービスやインフラが整っている日本に、そういうサービスセンターを置こう、という流れを作っていかなければなりません。これは自民党政権時代になかなかできなかった部分でもあるので、政権交代が実現した今、本当の改革を行い、日本が東アジア発展のための中核になることを目指すべきです。

財部:
はい、はい。

岩沙:
だからこそ、故郷(である日本)の証券市場にはもっと頑張っていただきたい。今、世界の金融資本市場からアジアに向けて投資が行われようとしている中で、東京や大阪がその拠点性を担えるようになってもらいたいのです。そのためには、規制緩和を含めた環境整備をもっと行わなければなりません。また、海外の優秀な人材が家族と一緒に日本で働き、子育てもできて、「日本に来てよかった」と思ってもらえるような仕組みを作ることも必要です。

財部:
せっかくなので、1つ質問させてください。事前にいただいたアンケートの中に、「親友の形見の万年筆と腕時計が宝物。『ここぞ』という場面にはこれで臨む」とありましたが。

岩沙:
それこそ、今日が『ここぞ』という場面だと思ったので持ってきました。この万年筆と時計がそうなんです。昭和40年代に会社に入ってから出会い、一緒になって住宅事業をやってきた、親友の香取君からもらったものです。私は95年に取締役になり、96年に常務取締役、97年には専務取締役に昇進し、98年に社長に就任しました。それだけ、当時のわが社を取り巻く環境が異常な状態にあったということなんです。実際、私が役員になってからは本当にリストラ続きで、バブル崩壊後における資産デフレの直撃を受けたわれわれ不動産業は、一体どうなってしまうのだろうと困惑しました。

財部:
はい。

岩沙:
あの資産デフレが起きたのは、急速にグローバル化した世界経済の中で、日本の不動産業が「ガラパゴス」状態になっていたことが原因です。だから、先進国と同じようにキャッチアップしていくことを考えれば、答えはおのずと出てくる。そこで私は、一刻も早く経営体質を改善するために、問題処理を行いました。当時はボトム(当期利益)が大赤字ですから、私が役員になってからはもちろん報酬カットで、賞与もありません。そういう苦しい時期に、香取君と一緒になって、どんな問題のプライオリティが高いのか、早急に処理すべきものは何かを検討し、苦労して問題処理を行ったのです。私が社長になった時、香取君は常務でしたが、彼は私の右腕として、時には泥もかぶってくれたし、私がやれないような根回しもしてくれたりして、本当に分身として尽くしてくれました。今考えれば、私1人ではもたなかったかもしれません。彼のような相談相手がいてくれたからこそ、デシジョンできた部分もあり、本当に感謝しているんです。

財部:
そうなんですか。

岩沙:
「負の処理」を行いつつ、私は1999年に「新生三井不動産」を掲げてビジョン、ミッション、ストラテジーをすべて作り変えました。そして、グループ長期計画の骨子が大体まとまった2001年8月、彼はガンで亡くなってしまったのです。死の直前、彼は「岩沙さん、新しい時代に向けて、自分としても精一杯支えたつもりです。この時計とペンを私だと思って、使ってくれませんか」と私に言いました。ですから私は、東京ミッドタウンの契約とか、投資家とサインを交わす時など、大事な場面には必ずこれを使っているんです。

財部:
人生の中で、そこまで素晴らしい親友と出会えること自体、なかなかないことですよね。「負の処理」を終えたあとの三井不動産の劇的な変身、あるいは岩沙さんの獅子奮迅の活躍ぶりの陰に、そういう方がいらしたのかと思うと、改めて納得がいくところがあります。

岩沙:
彼には本当に感謝しています。だから今でも、何かある時は「香取君ならどう答えるだろうか」と、自己検証をしているんです。そうすると、何となく、彼の声が聞こえてくるような気がします。「いや、大丈夫。思った通りにやりなさい」とか「ここは、ちょっと踏みとどまった方がいいんじゃないですか」、と。

財部:
はい。

岩沙:
たとえば、バブル崩壊後の資産デフレを経て、不動産業を再生するのに、当社のビジネスモデルがある程度、業界各社の参考になったのではないかという自負が、われわれにはありました。たしかに不動産業界は2006年頃から回復基調に入りましたが、事業リスクや先々の収益性、あるいは事業そのものの捉え方について、私は当時、業界全体が少々強気すぎるのではないかと懸念していました。心の中で、香取君にもときどき「僕はそう思うけれど、君はどう考えるか」と声をかけていたのです―――。

財部:
岩沙さんは、そこでどんな決断を下されたのですか?

岩沙:
実は、当社は06年の後半頃から、大規模な入札案件にほぼ完敗しました。私が「この線以上はやらせない」と言って、リスク管理を徹底したことが大きく影響したのです。当時は皆、かなりポジティブになっていたので、「こんなに弱気になって、社長はどうしたのだろう」とか「このままでは志気やモチベーションにかかわる」という声が、社内からずいぶん聞こえてきました。でも私は、これが経営者の本当の責務だと思い、「結果に対しては責任を取ればいい」と覚悟を決めてブレーキをかけたのです。お陰様で、それが今幸いし、中国市場への本格進出を含めて、次のパラダイム転換を正面から見据えて手を打っていくための余力が生まれました。

財部:
本当ですね。そこでストップをかけていなければ、パラダイムシフトへの対応も不可能だったでしょう。

岩沙:
ええ。当時は与信が拡大する中で、われわれの考える収益性を大きく超える取引も散見されました。私は「これは一体どうなっているのか」と疑問を抱き、「(自分の判断が)裏目に出たら経営責任だな」と思いつつも、「ここは少し抑えなければならない」と判断したわけです。

財部:
そうだったんですか。

岩沙:
お陰様で、もう事業環境については最悪期は脱したと考えています。いまのところ、実体経済の悪化の影響を若干受けていますが、もう底は打ったと考えています。

財部:
そうですか。

岩沙:
やはり、不動産市場はシクリカル(循環的な景気変動)に動くものですからね。当社では07年に、「新チャレンジ・プラン2016」(07年から16年までの同グループ長期計画)を策定しましたが、リーマンショック以降、危機への対応と次の成長への準備のために、次のパラダイム転換を見据えた事業再構築への基盤整備およびリエンジニアリング、そしてビジネスモデルのイノベーションに取り組んできました。
さらに今後、2016年度の当社グループのあるべき姿を再度議論し、2011年度をスタートとする経営計画を策定し、今後の力強く継続的な成長を目指して行きたい、と思っています。計画の具体的な内容は、来年の公表を予定しています。

財部:
また来年、取材にお邪魔させて下さい。本日はどうもありがとうございました。

(2010年4月2日 東京都中央区 三井不動産本社にて/撮影 内田裕子 ※冒頭ツーショット 三井不動産広報部)