株式会社アマダ 岡本 満夫 氏

岡本:
ええ、もの凄い経験をしたと思います。私はアメリカから帰国して1年後に、従業員約500人を抱える小田原の工場長になりました。ところが、詳しくは後述しますが、工場長になる前の半年間、まったくの「仕事ゼロ」で、どうしてこの様な環境下に置かれるのかと思っていました。じつは帰国前に、「君には、アメリカの現地会社の社長をやってもらう」と言われていたのですが、なかなかその気にはなれませんでした。というのも、こういう形でアメリカの中に埋もれていくと、「製造会社なら20年」と言うように、海外赴任が長くなり、帰国したら浦島太郎になって力を発揮できない。

財部:
もう行ったら、行きっぱなしなんですね。

岡本:
そうです。「このまま埋もれてしまったら、サラリーマン人生が終わってしまうかもしれない」と思い、「私を日本へ帰して下さい」と人事担当常務に上申しました。すると常務は、「私からは取り次ぐことができないが、どうしてもということであれば、自分で動けばいいじゃないか」というので、天田名誉会長に手紙を出しました。

財部:
どんな手紙を書かれたのですか?

岡本:
第1に、現在の上司とは入社以来の長い付き合いで、ここまで引き上げていただいた。しかし、違う上司とも仕事をし幅広く学びたい。第2に、企業規模が小さいと、どうしても1つのファミリーになってしまいがちである。ファミリーにはファミリーの限界があり、それを越える発言をするとギクシャクしてしまうので、結局、自分の考え方を殺してまで指示に従わなければならない。そして第3に、両親もそれなりの年齢になったので孝行もしたい、というようなことを書きました。

財部:
その結果、どうなったのですか?

岡本:
最後は、天田名誉会長によるオーナー決裁で、「3年間の教育期間を設ける。アメリカから日本に出向」という形になりました。それでやっと日本に戻ることができたのですが、いざ蓋を開けてみると「仕事ゼロ」の状態だったわけです。正直な話、「もう辞めようか」と思いましたね。

財部:
つまりポストがなかった、ということですか。

岡本:
取りあえず、課長職で部下2人をつけて、ポストだけは作っていただきました。以前「経営者の輪」に登場されたニコン・苅谷社長のお話とも似ているのですが、私もそこで現場のデータを取りながら、従来放置されたままの工程などの欠陥を改善し、大きな問題点を片付けていきました。そして、その成果を活かして工場の工程刷新に取り組み、それを一応やり遂げたあとに、小田原の工場長を命じられました。

財部:
それでは、岡本さんが自ら人事を勝ち取った、とういうことになるんですね。

岡本:
結果的に言えば、そういうことですね。でもその時は、非常に悩みました。何の行動も起こさずに辞めていたら、それで私の人生は終わりだったでしょう。いずれにしても、あの頃は、窓際ではなかったにせよ、トライアルピリオドだったのですね。

財部:
アメリカから「逆出向」というところに、全てが凝縮されていますよね。それにしても、小田原工場長時代は、「アメリカ帰りの人間が何を言ってるんだ」というような雰囲気はあったのですか?

岡本:
そうですね。当時43歳でしたが、周囲の課長クラスは皆50代で、部長クラスは60歳近い人達ばかりでした。こうした中で、古参の部下を動かしていくには理論や理屈しかない、理論や理屈は好き嫌いでは済まないと考えた。そもそも生産管理計画から工程管理まで、仕事や人の配分には好き嫌いが絡むので、自分が担当している工程がかわいいがゆえに、そこに人を集めたりするということが起こりうる。しかし工場の現場では、たとえものづくりで滞留しても、一定時間内で次にバトンタッチですから、いくら良い工程ができても、適切な生産管理やローテーションがなければ駄目ですよね。

財部:
ええ。

岡本:
それをより論理的に進めていくためには、製品を1個生産するために必要となる標準的な加工・組立時間である「スタンダードタイム」(標準工数)をまず設定します。スタンダードタイムに製品の個数をかければ、生産に必要な仕事量である「負荷工数」が計算できる。そして今度は「人的保有工数」(就業時間×作業者数で計算される人的な生産能力)をみれば、仕事量と生産能力のバランスがだいたいわかるわけです。となると、各現場の責任者に「今月は○時間の残業で、こういう体系で作業を進めてください」とか「このセクションに、こちらから○十人の応援を出してください」と、理論の裏付けをもって指示できますから、「そういう理屈だったら仕方ない」ということになり、誰も文句を言わないです。

財部:
そうですよね。

岡本:
ところが、いきなり「人を出せ」と言うと、「若造が何を言ってるんだ」となりますから、工場内に、そういう生産管理的な仕組みをどんどん作っていったわけです。

財部:
なるほど。単純に、生産管理の仕組みが良いから取り入れたわけではなく、工場をきちんと動かしていくための理屈や理論が、そこにあるがゆえなのですね。

岡本:
もちろん工場を動かすためです。「仕組みを作れば組織が必ず動く」というのは、とんでもない誤解で、「組織を動かすために、どんな仕組みを作るか」が大切なのですよ。

財部:
まったくその通りですよね。その意味でも、アメリカから戻られて小田原工場長をされた時期に、岡本社長の「原型」が作られたといっても過言ではないですね。

岡本:
ええ。そして今度は、会社の方針により、小田原から約1時間離れた所にある静岡県富士宮市に23万坪の土地を購入し、アマダ板金機械を製造する中核拠点となる富士宮事業所を造ることになりました。私は小田原工場から約100人のスタッフを連れて富士宮に行ったのですが、同じ部長クラスの人間には現状満足派が多く変化を嫌い「なぜ、わざわざそんなところに行かなければならないのか」と言う人もいましたが、私はそうは考えませんでした。また新しい仕事にチャレンジできると思い、嬉しかった。

財部:
その頃には、出向期間の3年間はもう過ぎていたのですか。

岡本:
ええ。小田原の工場長までやらせていただいたわけですから、出向云々という話は消えていました。やはり、日本に戻るために自分が何をするのかを考えるのも1つの戦略であり、その結果を、アマダが価値として受け入れてくれたからでしょう。逆に、そこで成功できなかったら、私は放り出されたかもしれません。結局、富士宮では8年間、単身赴任をしましたが、ここでまた衝撃的なことがあったのですよ。

財部:
それは、どんなことですか。

岡本:
アマダという会社は、この60数年にわたり、創業者の天田勇名誉会長と、義弟の江守龍治会長(ともに故人)が両輪になって経営されてきました。天田勇名誉会長は主に開発・製造系、江守龍治会長は販売系を担当され、もともとアマダのビジネスモデルは、「販売のアマダ」とか「展示会商法」と、どちらかといえば業界の異端児的な意味で語られていました。そこで国際見本市などの対外的なイベントに依存せず、独自のビジネス展開を図るうえで、伊勢原本社に大規模な展示場をつくりました。 また、江守会長は拠点工場を改革しなければと、富士宮事業所を、これからのアマダの中核拠点として位置付け、トヨタのコンサルタントを導入された。

財部:
トヨタのコンサルタントの方が富士宮事業所に送り込まれてきたのには、どんな理由があったんでしょうか。

岡本:
当時生産改革はトヨタ生産方式を見習うべきとのトップの判断があったのだと思います。そのコンサルタントは、工場内のある設備で部品加工をしている様子をみて、「ここの工場ほど宝の山はない」と、江守会長にじかに口入れをした。それで「それを改革するのは誰がいいのか」という話になり、私が指名され、彼からいろいろと厳しい指導を受けました。たとえば同事業所では、フレームという大きな機械を加工するのに20時間程度かかっていたのですが、彼は「こんなものは4、5時間で加工できる」とか「ここは3分の1の時間で切ることができる」と言うわけです。だからといって、こうすればいいということは一切教えてもらえないのですね。

財部:
そうなんですか。

岡本:
プロジェクトを作って対応しましたが、その時に学んだのは、表計算ソフト「ロータス」の活用でした。結局、データが現場の環境を読み取ってくれるので、生のデータを取ってきては「ロータス」で処理し、「ここが良い、悪い」と、2週間に1回のペースで会長に説明し、これなら、データベースのプレゼンでどうすればよいかという問題点が理解し易く、お褒めの言葉をいただきました。

財部:
あの江守さんからですね。

岡本:
ええ。そういうことをやってきた実績の積み重ねで、私は2000年に、アマダワシノとアマダソノイケとの合併によって生まれた新製造会社・アマダマシニックスの社長に任命されました。マシニックスというのは、マシンとエレクトロニクスを一緒にした合成の名前で、冠にはアマダの名前がついていますが、ワシノ、ソノイケ、アマダという各社のDNAは、まったく違うものなのです。

財部:
その意味で、かなりご苦労もあったのではないですか。

岡本:
どちらかというと、私はアマダ育ちなのですが、なかでもワシノは、古参の老舗としてのポリシーを強く持っている会社です。結局、スタート時は、製造会社として3人の代表権を持ったトップを抱えることになりました。一方、アマダ本家は会長、副会長、社長の体制ですから、合計6人が決済にかかわるわけです。「こんなことをやっていて、会社がスピーディーな経営判断ができるのか」と思ったので、「製造をとにかく一本化したいので、まずは1年間の中で、私1人でやらせていただく体制にしたいのですが、よろしいですか」と提案し、江守会長より了解をえられました。そういう流れで、アマダマシニックスは「アマダイズム」が強い製造会社になりましたが、とくに2002年は業績が厳しく、リストラや組織再編、分社化などをかなり頻繁に行いました。03年には、アマダが製販を一体化することになり、アマダがアマダマシニックスを吸収合併したわけです。

「販売のアマダ」から「エンジニアリングのアマダ」に進化

財部:
そういう中で、岡本さんは、アマダ本家の社長に抜擢されたわけですね。

岡本:
思いもよらないことでしたが、私を社長に選んで頂きました。最初に社長の内示をいただいた時、気が動転していたので、「わかりました」と言って、簡単にOKしてしまいました。でも私自身は、アマダの子会社ではなく、関係会社の製造を任された長だと思っていたとはいえ、なぜ自分がアマダ本家の社長に選ばれたのかが正直言ってわからない。加えてアマダは、これまでずっと創業家とその縁戚の方々が社長を務めてきた会社ですから、私の社長就任で、どんな摩擦が起こるかもわかりません。しかも、私自身は販売を一切やった経験がない。そこで「こういう、ないないづくめの中で、会長はなぜ私を選んでいただいたのでしょうか」と、次の日に確認を取ることにしたわけです。