株式会社アマダ 岡本 満夫 氏
学生時代に取り組んだのは、いろいろなバイト資金で、神社仏閣の歴史再認識旅行…もっと読む
経営者の素顔へ
photo

地域密着型のビジネスで、お客様とともに発展していく

株式会社アマダ
代表取締役社長 岡本 満夫 氏

財部:
まずは、今回ご紹介いただいた安川電機の利島康司社長とのご関係を教えていただきたいのですが。

岡本:
利島さんとはアマダの社長になってからのお付き合いです。年齢的には私より先輩ですが、私が2003年、利島さんは2004年と、お互い近い時期に社長になり、会社の規模もそれほど大きく変わりません。利島さんは非常に誠実な方で、ロボットに執念を持ってトップ外交をなさる方ですよ。

財部:
そうですか。今回いろいろと資料を拝見したのですが、岡本さんは大変なアップダウンを繰り返しながら、創業家以外の方で初めて社長になられています。そんな岡本さんの軌跡を知り、「宮仕えでもやりたい事をやっていいのだ」という、ビジネスマンにとっても励みになるお話が聞けるのではないかと思っていました。

岡本:
私は1972年の入社ですが、生え抜きではなく中途採用組です。新卒で東証1部上場の某財閥系企業に入り、ずっと開発・設計を手がけてきました。ところが、なかなか会社の業績が伸びず、赤字が続き将来性を考え、結婚の予定もあり転職を決断しました。その頃、アマダはちょうど1番の成長期にあり、驚くことに、給与は毎年2〜3割アップで、賞与も年間10カ月。今では考えられない話ですが、「なんといい会社なのだろう」と思いましたね。

財部:
時代的にそういう感じだったんですか。

岡本:
はい。今年、アマダは創業63年目を迎えますが、私が入社した頃の売上高は約100億円で、それが08年3月期には約2840億円、従業員数も約6000人という企業に育ってきたという経緯があります。その中で、生え抜きでもなく、創業者一族でもない私がなぜ社長になったのだろうと、夫婦共々仰天した事を思い出します。

財部:
入社間もない頃だと思いますが、岡本さんは建築用のH形鋼関連の研究開発に携わっていますよね。

岡本:
入社当時は建設ブームで、単にH形鋼などを切るだけでなく、H形鋼の継ぎ手部分に穴を開けてビル建設の資材などに用いるための「穴開け加工機」の開発に従事していました。ところがオイルショックで業界全体が一気におかしくなった。そこで、以後のアマダの拡大の歴史は、主にM&Aによって築き上げられていくことになるわけです。もともとアマダグループは、アマダワシノ(旧・ワシノ機械)とアマダソノイケ(旧・園池製作所。2000年に両社が合併し、アマダマシニックスに商号変更)という製造会社、および販売系の本家であるアマダ、アマダメトレックス(旧・園池販売。78年にアマダ技術サービスに商号変更。2000年にアマダに吸収合併)の4社を軸に成り立っており、製販分離の体制が整っていました。そのため社員には、製造と販売のどちらを取るかという選択権があったのです。

財部:
岡本さんが入社された時点で、ですか。

岡本:
入社後4、5年経った頃ですね。開発を続けたいということで製造側へ行きましたが、アマダに入って製販分離したあとはずっと「ソノイケ」の看板で来ています。

財部:
H形鋼関連の仕事の任期を終えたあと、岡本さんは小田原工場に行かれましたね。ある資料には、それが「非常に不本意な人事であった」と書いてありましたが。

岡本:
あれは、書き方が少し違うような気もします。われわれにはもともと選択権がありましたし、私自身は「開発の直接の上司と仕事をしたい」という気構えで、当時住んでいた座間と小田原を、車で1時間半かけて往復していましたので、もともと開発で入りましたから、当然、今後も開発を手がけていきたいという考え方が強かった。ところが当時、建設ブームは終わり、余剰人員も出始めていた。そこで設計から生産技術の方に転籍になりました。

財部:
どんな事柄を手がけられたのですか?

岡本:
パンチング金型の一貫製造設備導入、そして稼動させるという新事業ですが、それを行っていくうえで、生産技術が必要になるとのことでした。ご存知のように、工作機械メーカーでは、自社で工具を作り、工作機械と工具をセットにして売ることは、まず絶対にありません。工具屋は工具屋、機械屋や機械屋という線引きが厳然としてあるわけです。しかし、われわれには機械に加えて、消耗品である工具も一緒に売るというビジネススタイルがありました。つまり、当社は機械だけでなく、鉄板を加工する際に用いる、金型も一緒に販売したわけです。アマダは、将来こういう金型ビジネスを拡大させなければならないということで、素材加工から完成品までの一貫工程にロボットを採用し、自動化技術を各工程に取り入れたトータルなシステム構築を、すべて任されました。これが私にとって、真のものづくりの原点というか、エンジニアとしてのバックボーンになっていると思っています。

財部:
なるほど。

岡本:
逆に言えば、私は設計屋としてエリートに登り詰めていった方ではありません。「向こうはいいな」と、設計開発者の姿を漠然と思い浮かべる一方で、こちらの現実をみれば、とにかく新事業の立ち上げは大変で、気がついたら夜中の12時という毎日が数ヶ月続きましたからね。

財部:
やはり設計屋さんは、エリート意識が強いんですか。

岡本:
そういう部分は、どうしてもあるでしょうね。開発職にはやはり、「自分たちが商品を作り、それを世界に売っているんだ」という自負が非常にありますから。

財部:
決して調子を合わせるわけではないですが、実際にものづくり現場へ行くと、設計屋は結局何もできなくて、現場での最終的な微調整がなければ、良い製品は作れないという現実がありますよね。だとすれば、設計屋ばかりがエリートであるというのは、第三者的に言うと「いかがなものだろう」という感じもしますが。

岡本:
現在は改善されていますが、当時は、やはり学歴が優秀な人材は研究開発に行くものであり、工場系やサービス系にはちょっと、という構図が存在していましたね。財部さんがおっしゃるように、現在の技術者は昔と比較すると、現場のものづくりの現実を理解できていない者が多い。昔は強度計算などに計算尺を使い、ドラフター(製図機)を使い、手描きで図面を作成していましたが、今は図面を描くのも、材料力学の計算もCAD・CAMですから、自分がいったい何をやっているのかが、もっとわからなくなる。昔は図面を描いている中で「何クソ精神」というか、「負けじ魂」が相当培われたものですがね。

財部:
しかも、岡本さんの座右の銘は「努力」だということですが、僕はそういうお話を初めて伺いました。皆さんそれなりに、格好いい言葉を使う人が多いですからね。

岡本:
結局、「努力は人を作る」と言いますよね。しかし、馬1匹なら1馬力ですが、人1人ではたった1人力にしかなりませんから、他人とはまったく違うことをしない限り、われわれには「3人力」の仕事はできません。当然、知識や体験の部分など、われわれが工夫して努力を傾けるべきところはいろいろあるわけですが、とくにサラリーマンの世界では、自分がいくらやってみたいと思っても、よほどのチャンスが廻ってこない限り大きな仕事はできない。その意味で、サラリーマンがチャンスを掴むための第1歩は、まず上司と上手くコミュニケーションを取れるようになることだと思います。具体的には、「上司は今、何に困っているのか」を読み取り、それを解決することが大事で、私の場合は結構、五感を動かし対応してきた部分がありますね。

財部:
それはある意味で、ソリューションかもしれませんね。

組織を動かすために、データで考え、データで語る

岡本:
そうですね。35、6歳の時、当時の金型事業を立ち上げた時の上司に「君にはこの分野ではもう教えることはない」と言われたことが嬉しくて、その日は女房と一緒にお酒を飲み語り合いました。 1980年代初頭の日米貿易摩擦の頃、日本から完成品は限定されたものしか輸出できなくなり、アメリカに現地工場を建設するという、この業界ではいち早く、海外進出の話が持ち上がっていました。その上司は現地の実行責任者の任にあり、アメリカ工場の立ち上げ準備メンバーの中に私を入れてくださり、「岡本君、一緒についてきてくれるね」と言っていただいたんです。

財部:
そうなんですか。

岡本:
じつは以前からずっと、そういう雰囲気になっていたのですが、実際に声がかかった時に「検討させていただきます」ではいけない、片腕というのは仕事を共にしていくという上で躊躇すべきではないと思っていました。その時は「一緒にやらせて下さい」と即答しました。ただし、妻は一人娘なので、いきなりでは反対されると思い、半年ぐらいかけて、「もし俺がアメリカに行ったらついてきてほしい」と、ずっと根回しをしていました。まあ、こういうスタンスで、アメリカで6年ぐらい頑張り、これが私の人生における第1の転機で、36、7歳の頃の出来事です。

財部:
やはり、アメリカ行きは岡本さんにとって大きなチャンスになったわけですか?

岡本:
まず何かというと、オーナー創業者である、故天田勇名誉会長は、当時ロサンゼルス工場が心配で度々見にきていました。そこで発表を行ったり、食事会などを通じて、名前や顔を覚えていただいた。「おお、君か」と知っていただき、自分自身にとっても経営者の考えていることに直接触れる機会があり、仕事を上から見ることができるようになりました。

財部:
それ以外の部分で、アメリカの6年間で大きく変わった部分はありますか。

岡本:
ご存知のように、日本のアマダでは会社の規模がそれなりに大きいですから、ある意味で仕事の多くが「縦軸のリレー」になります。ところがアメリカでは仕事の機能面からすれば、横軸を合わせて機動的に雑用を含めて何でもやらなければなりません。そういう大局観と広い視野を持って、「仕事とは本来どうあるべきか」、「組織の中にカベを作ると、いかにタイムリーに行動できなくなるか」という面から、全体を見ることができるようになりました。

財部:
なるほど。

岡本:
その意味で、社員に「海外に出ろ」とよく言うのは、もちろん語学を学ぶのも大事ですが、会社1つを動かすとはどういうことなのかを、海外で一番理解できると思うからです。実際、現地人とのコミュニケーションは、日本人同士のようにはうまくいきません。ところが日本側ではそういう事情を当時の経営陣に理解されにくく、ごく普通に現地法人に要求が来る。その要求を訳さなければならない、という言葉の問題もあり、海外では同じ仕事でも日本の2、3倍の時間がかかります。でも、日本サイドはその辺の実状が理解できないので、「アイツは遅い」などと単純に思ったりする。海外では、こういう本社との葛藤も含めて、今後絶対にこういうことがあってはいけない、ということも勉強してくるわけですよ。

財部:
それを30代で学ばれたのは、大きな収穫ですよね。