伊藤忠商事株式会社 丹羽 宇一郎 氏

財部:
その気持ちは、よくわかります(笑)。

丹羽:
上司に「やりました」といったとき、僕は内心「しまった」と思ったのですが、それでも船会社への請求の仕事をそのままにしていました。ところがその後間もなく、僕がニューヨークに行くことになり、さすがに「ヤバいぞ、これは」ということになったんです。もう時間がないし、毎晩宴会や送別会続きで困り果てながらも、必死になって仕事を片付けた。そうしたら、今度はその船会社が突然倒産し、お金が入ってこないという事態になった。「これはエライいことになったなあ」と思いましたが、なんとか最後には、その船会社が買収されることになり、入金の目処が立つようになったんです。もう僕は運がよかっただけだったので、「やはり嘘というのはいかんな」、と懲りて、それ以来、全然嘘をついていません――、もちろん会社内でね。ワイフには別ですが(笑)。

財部:
意外なエピソードですねえ、丹羽会長にそんなご経験があったとは(笑)。

丹羽:
だから僕は、いま非常に明るいんです。「会社の中で隠すことは何もない」と、いいたいことをすべて話しています。自分が一身に会社を背負っているように思い込み、隠し事をして嘘をいうと、人生が暗くなってしまいますから。それで僕は社員に対しても、「嘘をどうやって、上手にごまかそうかと考えること自体、時間と能力の無駄である。だからすべて上司にいいなさい。上司はたくさん給料をもらっているのだから、『こんなことがありました。すみません』と事情を説明すれば、うまく片付けてくれる。だから君たちは明るく生きろ、嘘をつくな」と話しているんです。これは僕が会社に入ってしばらくして以来、30数年間変わらない考え方ですね。v

財部:
丹羽会長がそういう考え方に至るまで、どんな影響を受けられたのでしょうか。

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丹羽:
名古屋で両親が経営していた書店の名前が、「正しく進む」という意味の「正進堂」でした。それからロマン・ローランの『魅せられたる魂』とか『ジャン・クリストフ』などの本が、僕に大きな影響を及ぼしましたね。

財部:
そうなんですか。

丹羽:
やはり僕が20代の時に、船会社への請求をサボっていたときについた嘘も、それが突然、思わず口を突いて出たという意味で、「自分がかわいい」というか「自分がそんな弱い男にみられたくない」という、「化粧」の欲望に負けたのでしょう。だから「『絶対に嘘をつかない』という勇気を、強く自分は持たなければならない、自分に負けてはいけない」ということを、僕はその時心に刻んだんです。だから僕は社長になってからも、嘘をいったことは一切、本当にありません。また社員に対しても、「嘘をいわずにすべてさらけ出せ。自分も嘘を絶対にいわない」といい続けてきました。そういう危機感を共有しなければ駄目なんです、改革というものは。

財部:
ええ、そうですね。

丹羽:
それから僕にはもう1つ大きな転機がありまして、30代のときにニューヨークの商品先物相場で、会社全体の税引き後利益に匹敵するぐらいの大損をしたんです。その時、アメリカは干ばつに向かっていたので、僕はある農産品を一気に買い進めたのですが、雨に降られて見事にやられてしまいました。しかしその時、僕は「努力する者は報われる」と強く念じてギブアップせず、アメリカの気象庁やウェザーキャスターに電話したり、出張して話を聞いたりして、ずっと頑張り続けた。そうしたら「神の助け」か、本当にもの凄い霜がやってきて、その農産品が一転して減産になり、価格が上昇して儲かったんです。

財部:
そうなんですか。

丹羽:
そのとき僕は、「嘘をつかない」ということにプラスして、今度は「something great」というか、神というようなものを意識するようになりました。つまり、神様はすべてをみている。だから、自分では「誰も知らない」「誰もみていないだろう」と思って嘘をついても、絶対にばれると僕は確信しています。ところが多くの人が、「ばれるはずはない」と思って嘘をついている。実際、たくさん嘘をついていますよ、人間は――。でも個人でなら、それはいいとしても、会社では絶対にやめていただきたい。やはり影響力が大きすぎるから。

財部:
ええ、わかります。

丹羽:
結局、僕の大きなターニングポイントは、先のディスパッチ・デマレージと船会社の倒産、それからニューヨークでの大損ということになりますが、倒産した船会社が買収されるとか、大規模な霜が発生するということは、まったく予想すらできませんでした。ある意味で、一所懸命、真面目にやったことに対するリターンとして、女神が微笑んでくれたのかもしれませんね。

財部:
いいお話ですね――。私はいまある本を書いているんですが(『負けない生き方』/東京書籍より07年8月に発刊)、就職氷河期を経験した編集者から「自分たちの世代にメッセージをいただきたい」という依頼を受けたんです。先の「数値化」の話でいうと、新聞やテレビでは「大卒新入社員の、3人に1人が3年以内に会社を辞めている。これは辞めすぎだ」と一刀両断しています。しかし、その1人ひとりの人生をみていくと、どの会社にも就職できないというのは大変なことなんです。もちろん、だからといって50社も60社も受けるのも間違いですが、結局、社会人になるその入り口で、「自分が何をやりたいのか」ということにしっかり向き合わず、焦りに焦って就職活動をする。その結果、会社に入れたら入れたで、今度は仕事に満足できず、30歳を過ぎてもいまだに「自分探し」をしているような人が少なくありません。そこで、私が出会ったさまざまな方の事例を出しながら、自分の想いを書いていたんですが、やはり「something great」というのは、われわれが人生を生きていくうえで、とても大切なことですよね。

丹羽:
そうですね。ただ言葉に酔っちゃうんですよね。「自分探し」といえば格好いいですが、「そもそも君は、『自分』とは何なのか、わかっているのか?」という、ものの考え方は、やはり先輩が教えるべきことです。本来なら、学校の先生がヒントを与えるとか、そういうことを教えるべきなのですが、それができていないから、当社では私がそれを一所懸命にやっています。とはいえ若い社員たちは、いったいどれだけ理解してくれているものか――。今後の伊藤忠商事にとって一番重要なことはやはり大切なのは人材です。そして、その人材を本当に伸ばすのは知識ではありません。ここで私がいいたいのは、彼ら自身、「なるほど、そうなんだ」と本当に悟るような体験をしなければ駄目なんだということです。だから一回嘘をついてみて、大失敗したらいいんです、そうすると、嘘をつくことの怖さがわかりますからね。

財部:
「体験に勝るものはなし」、ということですね。

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丹羽:
ええ。こういうことは、いくら人に聞いても駄目だと思うんです。リスクマネジメントで一番重要なことは、「ハインリッヒの法則」(1件の重大災害が起きる背景には、軽傷の事故が29件、ヒヤッとしたりハッとする無傷災害が300件存在するという法則)でもわかるように、「小さなリスク、小さな事故を、毎日のように持つ」ことですよ。

財部:
ほお。

丹羽:
そうすると何というか、意識的に、始終大変だということになる。ところが人間は、リスクが何もないと不感症になり、ある日突然ドンと大きな事故に見舞われてしまうのです。だから企業の場合、そういう大きな事故の背景にある、何百もの「ヒヤッとしたり、ハッとするリスク」に経営者が敏感であれば、大きな事故は避けられるんです。ところが鈍感な経営者だと、「ヒヤッとしたり、ハッとする」300件の小さなリスクがすべて目の前を通り過ぎていく。そしてさらに、その周囲にある29件の中規模のリスクを見逃すと、大きな事故がドーンとくる。その意味で、ミートホープ社でもおそらく、ああいうことが起きる以前に小さなリスクが数々生じていたのでしょう。でも、皆がそれらを意識的にネグレクトしていたから、大事故を防ぐことができなかった。

財部:
そうでしょうね。

丹羽:
だから経営者は、そういうことに非常に敏感で、小さなリスクにも心が震えるぐらいの繊細さを持っていることが肝心。つまり、剛胆さと繊細さの両方を持っていなければ駄目なんですよ、人間は。もしわれわれが、鳥が飛び立つ羽音にも驚くくらいの繊細さを持ち、小さなリスクにハッと気が付くことができれば、おそらく大きなリスクは回避できるでしょう。だから社員にもそういう教育をしなければなりません。その意味で、極端な話、社員たちは、むしろ最初のうちは、小さな嘘をついて徹底的に痛めつけられたらいいんです、「こんなことをしてはならないんだ」と本人が本当に悟るまで。あるいは奥さんに嘘をついて、バレたらいいんです。そうしたら本人も、二度と嘘をつくまいと思うから(笑)。

財部:
嘘の被害が、家庭内で収まりますからね(笑)。

丹羽:
人によっては、もっと巧妙に嘘をつこうと思うかもしれないけれどね(笑)。

財部:
そういえば、ある銀行の頭取が、金融危機の時代を振り返り、面白いことをいっていました。というのは、バブル期にも一応、融資案件はみな審査に回ってきていたそうなんです。ところがそこで上の連中が、「お前、これは大丈夫か?」と担当者に聞いていて、その結果、すべての案件が「大丈夫」になったというわけです。結局のところ、「大丈夫」ということは、リスク評価がまったくないことに等しいですよね。

丹羽:
「大丈夫か?」というのは、愚問です。上が何もわかっていないということですよ。だいいち「大丈夫か?」と聞かれて、「大丈夫じゃありません」と答える部下は1人もいません。それは、「健康か?」と聞かれて、「はい、健康です」と答えるのと一緒じゃないですか。したがって「大丈夫か?」というのは経営者として最悪の愚問であって、そういう質問をする経営者自身に、まず問題がありますね。

財部:
だから日本の銀行は、ああいうようになってしまったわけですよね。

丹羽:
いまの「大丈夫か?」にしろ「(この仕事はもう)やったか?」にしても、これは経営者や上司が発する愚問の最たるものです。そもそも上が「やったか?」と聞けば、下はかならず「やってます」と答えますからね。だから僕はこれを、「やってますユビキタス」症候群(ubiquitous:〈英〉「どこにでも、またはさまざまな場所に同時に存在する」ように思えること)って呼んでいるんですよ(笑)。

財部:
ははは。

丹羽:
実際、社内のどこに行っても、僕が「やったか?」と尋ねると、すべての社員が何についても「やってます」と答えます。ところがよくよく聞いてみると、部長が「やってます」というときは、彼が課長に「やっておけ」と命じただけであり、課長が「やってます」というときは、課長が課員に「やっておけ」と話しておいたということがほとんどですね。でも、僕が聞いているのは、「仕事はちゃんと進んでいるか、いまどこまで進捗しているのか」ということなんですよ――。でも本当に、誰が聞いても「やってます」というらしい。だから財部さんが「やったか?」と誰に聞いても、「やっていません」と答える人はほとんどいないと思います。これが、いわゆる「やってますユビキタス」症候群(笑)。

財部:
なるほどね(笑)。丹羽会長が社長、会長になられてこれほど時間が経っても、まだそういう社員が残るわけですか

丹羽:
それはそうですよ、人間はそれほど簡単には変わりません。東西ドイツの統合にしても、1989年のベルリンの壁崩壊から18年が経ち、ようやく旧東ドイツの人々が資本主義社会に少し慣れてきたというのが実情です。それにひきかえ、僕が社長になってからまだ10年ぐらいです(1998〜04年までの6年間、丹羽会長は社長在任)から、なかなかうまくいきませんね。

財部:
その間、伊藤忠商事のブランドイメージは、大きく変わりましたが。

丹羽:
うーん。ヒトが動物だった期間が220万年、そして人間が神の「ロゴス」(「Logos」キリスト教における「神の言葉」、語源はギリシャ語「言葉、理性」を意味する)を得てから、まだ5千年しか経っていませんから――。

財部:
ずいぶん長い時間軸ですね。人間はまだまだ進化の途中ということですか。本日はどうもありがとうございました。

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(2007年7月17日 港区 伊藤忠商事株式会社 東京本社にて/撮影 内田裕子)