新日本石油株式会社 西尾 進路 氏
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石油に限らず、エネルギーの総合ソリューションを提供する

新日本石油株式会社
代表取締役社長 西尾 進路 氏

財部:
三菱商事の小島社長とはどんなご関係なのですか?

西尾:
小島さんは、私が卒業した東京学芸大学付属世田谷中学校の1年後輩です。私は去年社長になったばかりですが、彼はその前の年に社長になっておられて、たまたま彼のキャリアを見たら同じ中学卒業と分かりました。それで私が「小島さんは学芸大付属中の1年後輩じゃないか」といったら、「ああ、そうですか」と――。三菱商事さんの社長っていうと本来はずっと偉い存在ですが、それ以来、プライベートの関係では逆転状態なのです。(笑)

財部:
なるほど。私は石油業界を遠目でしかみたことがないのですが、ただ1999年4月1日の日本石油と三菱石油の合併、「日石三菱」という組み合わせについて、正直いって「これでいいのだろうか」というような感想を持っていました。それまで私なりに持っていた日石のイメージと、いわゆる三菱の世界≠ニは、本当にうまく合うのだろうか、という思いですね。逆にいうと、「あの日石ですら、そんなに危機感があるのだろうか」と。正直にいうと、今でもそれが本当に実感としてわからない部分ですが、2社の合併はそれほどまでに必要なものだったのでしょうか?

西尾:
結論からいうと、大変――、大変に必要な状態でした、当時は。 かつて「特定石油製品輸入暫定措置法」という法律がありまして、それが1996年に廃止になった。それを機に、ガソリン、灯油、軽油などの石油製品の輸入が国内で自由化されました。そうなると、精製能力の余っている韓国やシンガポールなどから石油製品が大量に輸入されるようになり、国内のマーケットは大変なことになるのじゃないか、という危機感が、当時はあったわけです。

財部:
そうなのですか。

西尾:
それまでは、家庭の必需品である灯油、それから輸送用トラックの燃料である軽油の価格は安く抑えられ、「贅沢品」とされたガソリンだけが高いという状態になっていました。つまり、石油会社はガソリンで飯を食っていたのです。ところが石油製品の輸入が自由化されるやいなや、国際マーケットの影響を受けて、それまでの販売価格に比べてガソリンと軽油や灯油がほぼ同じ値段になるという、価格体系の大転換が起きたわけです。 当時、日本石油の国内シェアは16%で、三菱石油が8%ぐらい。そんな混乱した状況の下では、マーケットできちんとリーダーシップを発揮できる企業が必要だ、という意識がありました。

財部:
なるほど。

西尾:
今度は「じゃあ、相手はどこだ?」ということになりますね。出光興産あり、ジャパンエナジーあり、それからコスモ石油、昭和シェル石油、三菱石油があった。 その中でどこが一番いいかと考えると、われわれの商売はそもそも、石油製品を特約店に卸すことである――。となると、商売の基本、つまり特約店に対する取引のやり方が似ている、という点が最も大事になってきます。

財部:
具体的に似ているのは、どんなところですか?

西尾:
それは「大特約店が多い」という点です。私どもの特約店の皆さんは、昔から続く地主さんとか、地元の名士でもある資産家が多くいらっしゃいます。そういう人たちが、日本石油や三菱石油のディーラーに名を連ねていました。

財部:
なるほど。

西尾:
三菱石油と日本石油では、比較的規模の大きな「特約店」がその地域の石油流通の中心となり、「特約店」の傘下に「販売店」があるという姿が一般的でした。そういう形態が似通っていたのです。やはり商売の要は販売ですから、お互いに売り方が非常に似ていたことが大きいですね。また、日石の有力な特約店がないところに三菱石油の特約店があったり、またその逆があり、ということもありました。

財部:
逆に、互いに競合していた部分はありませんでしたか?

西尾:
もちろんありましたが、総じて、お互いに特約店網や販売店網を補完する関係にあったことが、合併の第一の理由です。製油所をみても、私どもは互いに補完関係にありました。日本石油は、室蘭、根岸(横浜市磯子区)のほか、大阪、麻里布(山口県玖珂郡和木町)にグループの製油所を持っていました。一方、三菱石油は、ちょうど室蘭と根岸の間の仙台、そして大阪と麻里布の間の水島に製油所がありました。そのため、合併により、全国的にみても実にバランスの取れた製油所の配置になったわけです。 また、両社の社員の感じも何となく似ていました。当時、三菱石油はいろいろなところからプロポーズがあったみたいですよ(笑)。でも彼らは「やはり日本石油だと」。日本石油も「やはり三菱石油だと」――。そのように意気投合したということでしょうね。

財部:
そのとき、第二の選択として、考えたところはなかったのですか?

西尾:
三菱石油とは、1999年の合併以前、約14年間にわたり大幅な物流提携を行っていました。その意味で、お互いによく知っていましたから「合併するならここだろうな」という意識はありましたね。コスモ石油さんや出光さんとも物流提携をしていましたが、やはり三菱石油でした。

財部:
古い話で恐縮ですが、『ENEOS』のコーポレートブランドに統一することは、すんなりいったのですか?

西尾:
はい、これは実にすんなりといきました。日石は真っ赤な太陽の上半分をかたどった『サンライズマーク』を使っていまして、これも結構評判のよいブランドでした。三菱石油は当然のことながら『スリーダイヤ』ですよね。合併後の2年間は両方のブランドマークを使っていましたが、やはり同じ会社で2つのブランドマークというのはよくない。旧三菱石油の特約店も旧日石の特約店も、同じマークでやってもらいたいと考えたわけです。これについては、皆さん大賛成で、すぐに「同じマークでやろうや」ということになりました。このとき作ったのが『ENEOSマーク』で、お陰様で、いまでは皆様から相当に認知されるようになりました。スリーダイヤとサンライズマークが混在するよりも、一緒に『ENEOSマーク』になることで、圧倒的な存在感をアピールできます。その意味でも、大成功でした。

財部:
いちドライバーとして走っていても、その存在感は伝わってきますよね。

西尾:
かなり効果がありました。お金はかかりましたけど、ブランド統一は必要でした。

財部:
私も最初は、「日石三菱」と言う名前をあまり評価していなかったのです。「アメリカ企業でもないんだから、『日石三菱』というのはいかがなものか」と思っていた矢先に『ENEOS』になったので、私は「これはもの凄く勇気のいる決断だったのではないか」と、僭越ながら評価をさせていただいていました。やはり、本当にブランドを統一していかないと、企業同士の融合はあり得ない、と思いましたね。

西尾:
そうですね。コストがかかるという意味でも大きな決断でした。(『ENEOS』のブランド統一に)200億円ぐらいかかったと思いますから。

財部:
そのとき西尾社長は、まさしくコストに関係する職務におられたのですよね。

西尾:
もちろん。私は当時、経理財務担当の常務でしたから。でも、あのマークの提案をみたとき、「大丈夫だ、これはいける!」と直感しました。また、常務会メンバーも「これはいい」といっていましたし、若い人たちの推薦もありまして、うまくいく自信はありましたね。