株式会社ロック・フィールド 代表取締役社長 岩田 弘三 氏
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株式会社ロック・フィールド
代表取締役社長 岩田 弘三 氏

「丁寧な販売」を再構築し「ザ・ミライ・サラダ・カンパニー」を目指す

財部:
今日は、アートコーポレーションの寺田千代乃社長からご紹介をいただきました。

岩田:
運送業には、営業区域の関係で、県境を超えて荷物を運べないなどの厳しい規制がありましたが、寺田さんはそれをことごとく打破してきました。また2002年と03年には関西経済同友会の代表幹事も務められました。その規模や内容を考えると並大抵ではなかったと思います。以前からずっと尊敬しており、仲良くしていただいています。

財部:
私も同社には初めて伺ったのですが、あの柔らかい物腰に驚きました。いろいろな記事や写真から抱くイメージは当然ありますが、予想していた以上に柔らかい感じの方です。相当厳しい方なのでしょうけれど、ああいう雰囲気を醸し出すことができるのは素晴らしいと思いましたね。

岩田:
ご自分の本業だけでなく、いろいろな企業の社外取締役も務められています。特に同友会を含めてボランティアや社会貢献が多いので、彼女のそういう人間性が感じられるのではないですか。安倍総理が成長戦略の中で女性の活躍を掲げていますが、寺田さんは活躍する女性を代表する方だと思います。

財部:
岩田社長のご経歴を改めて拝見すると、凄いものがありますね。今まで数多くの経営者に会ってきましたが、私自身は「Think Different」を考え方の基本にしています。岩田さんも同じことをおっしゃっていると思ったのですが、創業当時から20年、30年、40年と、それをやり続けている経営者は意外と少ないのです。これほど業態を変え続けている会社はなかなかないですね。

岩田:
「壊し屋」のような気がしますね。今までにレストランを始めとして、いろいろなことを手がけてきました。創業当時はデパ地下で高級洋総菜を展開し、その後「神戸コロッケ」も始めました。欧米化していくライフスタイルの中で、「これからは高級洋総菜だ」と言いながら、一方で肉じゃがコロッケやポテトコロッケなど家庭的な惣菜を販売するのは、私なりにきちんとした思いはあったのですが、社員には分かりづらい部分もあったのだ と思います。でもお客様にはしっかりと認めていただけたのですね。でも失敗もたく さんしているのですよ。

財部:
経済誌は一般的に、岩田さんを捉える時も他の経営者を捉える時も、ある意味で成功をつないでいきます。だから天才的な経営者が、次から次へと商売を当てて今に至っているというストーリーが生まれてしまうのですが、現実はそう簡単ではありません。数多くの失敗の中から成功が導かれ、結果として見ると、それが素晴らしいストーリーになるのです。そうは言っても、岩田さんの場合は、成功したものをどんどん切り捨てていらっしゃるではないですか。そこが他にはなかなかない部分だと思っているのです。

岩田:
先月イチロー選手が日米通算4000本安打を達成しましたね。以前、イチロー選手の本を読んだのですが、彼は会心のヒットをあまり評価していないのです。ボテボテのセカンドゴロを打ってダブルプレーになるところから、彼は学んだと言っています。「完璧です」と言ってホームランをたくさん打つ人はたぶん多いのでしょうが、失敗を通じて自分を訓練していくというイチロー選手の生き方は凄いと思います。

財部:
そうですね。

岩田:
イチロー選手の奥さんのお姉さんと2度ほどお会いしたことがあるのですが、イチロー選手はストイックで、どんなことがあっても家に帰ってきて1時間必ずストレッチをしているというのです。この話を聞いていて、私の場合は、何のバックグラウンドもない所で仕事をしてきた頃から、いろいろな方に自分の良さを引き出し育てていただいた結果だと思うのです。

財部:
最初にこれを聞いてみたいと思ったのですが、いろいろ資料を読むと、岩田さんは「レストランフック」の創業時に「一流ホテルの素晴らしいシェフを連れてきた」と軽く書いてあります。でも、岩田さんが初めて作った店に、なぜそのようなシェフを連れてくることができたのでしょうか。若かりし頃とはいえ、そこに岩田社長らしいエピソードが何かあるのではないかと思ったのですが。

岩田:
僕は読書家ではないのですが、『太閤記』などに、のちの豊臣秀吉である木下藤吉郎が三顧の礼を尽くして竹中半兵衛を迎えたと書いてあります。黒田官兵衛もそうですが、彼らは、秀吉にしてみれば自分の一番足りないものを持っている軍師です。私はステーキを焼いたり、カレーを作ることはできても、基本に基づいた欧風料理やフランス料理を作ることはできませんでした。かねてから尊敬していたシェフが、あるホテルの料理長を務めており「彼しかいない」と店を訪ねました。その方は料理の才能はもちろん、サービスを含めてお客様に自分たちの料理を伝える力が非常にありました。僕は、その方をなんとかスカウトしたいと思い続けて藤吉郎のように何度も会いに行き、自分の夢を語りました。たまたま彼に転機があって、「じゃあいいか、賭けてみよう」と決心してくれたのです。

財部:
その時、特別に高い報酬を出すことはできたのですか?

岩田:
私の倍の給料を払いました。私自身、給料をそれほど多く取っていなかったこともありますが、彼が勤務先のホテルから得られる給料よりも多く出しました。その後、フランス人やイタリア人にも何人か働いてもらったことがあります。フランス人の場合は8月が給料込みで1カ月のバカンスですが、それ以上に給料を払いました。それでも得るものがあり、社員のためになるのなら、十分なリターンがあります。給料が僕より多いということはあまり問題ではないと思います。

財部:
創業当時すでに、商売に対する明確なイメージはかなりできあがっていたのですか。

岩田:
それほどなかったと思います。勉強は嫌いではありませんでしたが、中学を卒業後、定時制高校に通いながら、日本料理店で働き始めました。そのうちに食の世界で生きていこうと決心し自分の店を持ちたいと思うようになりました。幼い頃から「お前は本当に商売人や」といろいろな方から言われ続けてきました。社長室に飾ってある絵を描いてくれたのは四国銀行の元頭取で、神戸支店の初代支店長を務めた方です。僕がお世話になった恩人から「あの銀行がオープンしたら一番に行って預金通帳を作れ。きっと力になってくれる」と言われたので、彼の紹介で(開店したばかりの四国銀行神戸支店に)当座預金を開設しました。

財部:
この絵をその方が描かれたのですか。

岩田:
浜田耕一さんという方です。「波濤に起立する岩(ロック)」という題名で、大変な苦労をしているけれど、将来光が差してくるというテーマの絵を描いてくれたのです。その方にも大変お世話になりました。

財部:
その方が四国銀行神戸支店の最初の支店長になられた時、岩田さんに対してどのような評価をしておられたと思いますか。

岩田:
よく働いたということでしょうね。よく遊んだことも事実ですが、働き者だという認識は持っていただいていました。それと浜田さんは、ご自身がバンカーとしていろいろな方を引き立ててきた人物で、私はどこかで彼の目にかなったのでしょう。年に最低1、2回は本店のある高知に行って、会社の取組を報告して聞いていただきました。また浜田さんは「神戸にロック・フィールドという面白い会社がある」と広報宣伝部長のように話をしてくださいました。阪神淡路大震災の時は頭取でしたが、神戸が大変被災したので「支店の取引先を集めてご馳走を振る舞うから取引先代表として挨拶するように」と言われました。僕はお断りしたのですが、「これから神戸でリーダーの立場になるのだから、君がやりなさい」と言っていただいたり、かなりおだてられながら育てていただいたということかもしれません。