ツネイシホールディングス株式会社 神原 勝成 氏

神原:
当社のフィリピン工場は、本当に大田舎ですよ。中国の工場も、島を2つぐらい渡り、フェリーで行かなければならないところに造船所を作っていますしね。

財部:
そんなに離れていたら、不便ではないですか?

神原:
インフラがゼロですからね。でも、フィリピン政府に言ったところで、そんな田舎にインフラを整備するお金なんかありません。だからすべて自前で、セブ市内から電線やら水道を引っ張ってきて作っちゃうんです。

財部:
そうですか。そういう地域を大切にするという企業文化は、いつ頃からツネイシさんに明確にでき上がってきたのでしょうか。創業者の神原勝太郎さん、それともお爺さんの秀夫さんの頃ですか?

神原:
それが明確になり始めたのは、最近だと思います。もちろん代々トップが相談を受けたら「よし、わかった。やってみましょう」という感じで、その時々にできる範囲での地域貢献は行ってきましたが、それを「100年やっていこう」という話をし出したのは、ここ数年ですよ。

財部:
言葉として明確に、「100年やっていこう」というスタンスを示されたわけですね。

神原:
言葉としては、「これからの100年に向けて」というフレーズを、企業行動宣言の中で謳っています。でも「地域との密接な連携と協調および共存を目指します」という考え方を明文化したのは、今の造船事業を担っているメンバーです。

財部:
そうなんですか。

神原:
企業行動宣言をきちんと明文化してよかったと思うのは、会社としてステークホルダーのみなさんへの約束事を明確にすることができたことです。ステークホールダーさんに対して、「ウチはこういう会社になります」ということを明文化して、それをポスターにして貼るとか小冊子を作るということを、機会があるごとに行っています。おそらく地域の皆さんも目にしていらっしゃるはずです。

財部:
なるほど。

神原:
当社は、昔はとくにそうでしたが、やはりオーナー企業はトップダウンですから、オーナーのカラーが色濃く出ていましたが、そういったことも、社内規定やルールを明文化することによって、非常にフェアになったというのは手応えがありますね。

財部:
たとえば、具体的にどういうことが変わりましたか。

神原:
「例えて言うならば、あの人は5回も6回も失敗したのにアウトにならないけれど、別の人は1回空振りしただけでワン・アウトになった」、というようなこともあったわけです。人事評価も含めて。そこで僕が父親に「公正な人事評価システムを作りたい」と話したら、「人間なんて、見とりゃわかる。ルールがないというルールにせい」、というようなことを言うんですよ(笑)。

財部:
ははは――。

神原:
それは究極的には、その通りだと思うんです(笑)。ちゃんとした組織やヒエラルキーがあり、その中で然るべきポストの部長なり役員が、きちんと社員のことを見て、動機付けやケアをすれば、ルールなんていらない。これが父の考え方です。でも現在では、会社の規模も大きくなったし、中途採用者や外国人社員も増えています。最初からこの田舎町で生まれて育った人だけではなくなっている。だから「ルールを作らせやー」と僕は主張しました。父といろいろ一悶着ありましたけれど、まあ、そういう感じですよ、うちの父は(笑)。

「父との軋轢」が帝王学であり、企業改革だった

財部:
そういうお父さんの言葉を跳ね返して、「自分はこうやっていくんだ」と決めた動機は、どこにあったんですか?

神原:
やはり、「作る」ことの方が効率的なんだろう、ということです。先に話したように、父が、会社を祖父の代の30倍にできたのは、従業員のことなら家族構成までわかって、社内のことを全部自分で把握できていたからです。ところが僕なんかは、会社に入ったら、すぐに取締役をやって、8年か9年で社長でしたから――。

財部:
社長になられたのは29歳の時ですよね。

神原:
ええ。そもそも会社がどうなっているかまったくわかっていないので、そういう中で効率的なマネジメントを行うとすれば、社内にきちんとした法律を作る、自分の思うことを明文化する、自社が進むべき道をちゃんとビジョンにして形にする、ということが必要だと自分で判断しました。だから、父といろいろぶつかってしまったわけです。「バカタレー! お前、従業員と酒を飲んでみろ、従業員の気持ちはすぐにわかるぞ」という感じでね(笑)。

財部:
なるほど(笑)。そういう軋轢を乗り越えて、会社の歴史とともにマネジメントは変わっていかなくてはなりませんよね。そこがうまくできたのは素晴らしいことですね。

神原:
でも父は、ルールの明文化やビジョンなんかつくるなって言うのです。「世の中どうなるかわからん。お前がコミットしたらそれを絶対にやり抜かなければいけないが、いいのか」と言うわけです。それで役員会に出てきて、「お前ら、役員承認したんだから、できなかったら全員クビだ、一筆書け!」とか言い出しましてね(笑)。

財部:
そうですか(笑)。

神原:
「息子がそういうことをやり始めて、もし失敗したら……」という親心があったんだろうと思いますね。僕が社長になってから4、5年は、週に1回は父の家に一升瓶持って行って大激論しました。お袋は飯を作りながら「お父さん、そんな怒らずに……」とかやるわけですよ。最後は父が癇癪を起こして「帰れ!」というような話になる。でも母は、「勝成、あんた、まだまだね。あなたのお爺さんとお父さんは、もっと激しかったわよ」と言ってくれましてね。父も祖父と喧嘩して、その時々のマネジメントのやり方を変えてきたんですよ。

財部:
ほお。

神原:
だから父からすると、「息子が生意気なことを言い出したな。でも、俺の時にくらべたら、たいしたことないな」、なんて思いながら試していたんです。

財部:
そうかもしれませんね。

神原:
父はそうやって29歳で社長をさせながら、帝王学というものを教えていたんだ、と最近になってわかりました。穴吹さんのところもそうでしょうし、ワコールの塚本先輩の話を聞いても、ファミリービジネスの場合、父親は、息子を育てるということを10年、20年のスパンでみているんだなということがよくわかりますよね。

財部:
うーん。

神原:
ただ、こっちも鼻息が荒いですからね、「社長になったら自分のカラーを出さないと」と思って躍起になっていくわけです。面白いですね、オーナー系企業というのは。

財部:
面白いですね。「お父さんとお爺さんはもっと喧嘩していた」という、お母さんのアドバイスを聞くと、「もっとやっていいのか」とも思えるわけで(笑)。

神原:
はい。父は僕とだけでなく、弟ともそれをやっているわけで、親子のぶつかり合いはもう凄いのですが、父も祖父と激しい喧嘩をしながら改革をやったんだと思います。そういう泥臭い歴史というのは、聞いていて面白いですよね。

財部:
それを聞いて、どうしてこんな巨大な会社の社長を29歳の勝成さんに譲ったのか、分かりました。社長になったら、若かろうが、経験がなかろうが、まわりは社長として扱います。そうなると、何が何でもやらなきゃいけない。馬鹿にされてはいけないし、本気でやらざるを得ない状況に追い込まれていきますよね。

神原:
そうですね、あと、万が一、僕に任せて会社が傾きかけても、自分が50歳そこそこなので、すぐに経営に戻ってくれば、なんとかできるという自負もあったと思います。その代わり、経営環境は人事面を含めて僕がやりやすいように整えていってくれました。自分の経験から考えてくれて、ちゃんと躍らせてくれていますよね。やはり父というのはよく考えていると思います。

財部:
良い親子関係になっていますね。

神原:
そうですね。最近では、親子関係は順調で、父は3、4カ月に1回母と息子4人、姉と妹の旦那さんを連れて、一族で旅行に出かけるんです。仕事を離れて、それこそ昔の話など父から聞けるんです。この1、2年で、そういうような関係にやっとなれました。(笑)

財部:
そうですか。でも29歳のときに「社長をやれ」と言われた時は、どういうシチュエーションだったんですか?

神原:
僕はよく覚えているんですが、1月15日でした。当時は叔父が社長をやっていまして、「もう7年も経ったから、誰かを社長にする」ということを、父が言っていたんですが、どうもみんなに断られたらしいのです。それで発表の3日前に父に呼ばれて、「どうせ勝成に継がせるつもりだから、お前、やってみな」と言われてね。

財部:
そのとき、どんな気持ちでしたか?

神原:
僕も「父親のここが気にくわん」とか、叔父の経営について「これが嫌だ」という思いがあったもんですから、「おお、俺にやらせ、やらせ!」と言ったんですよね(笑)。若かったから。普通なら「1週間考えさせてください」とかいうのが、サラリーマンスタイルなんでしょうけれどね。

財部:
そうですね――(笑)。

神原:
即決で浮かれていました(笑)。強い父が会長で、社長の叔父もやりにくかったと思いますよ。二頭政治になっていて「これはまずい」と見ていました。俺がやったほうがましだと(笑)。でも、あとで考えてみれば、29歳でよく社長を引き受けたなと思いますけど。