株式会社ニコン 苅谷 道郎 氏

財部:
その当時、社内には相当、抵抗があったんですか?

苅谷:
いいえ。もうフィルムカメラが下降線をたどり、要するに当時はステッパー(半導体の製造に用いられる縮小投影型露光装置)の全盛期でしたから。ともかくカメラを次の世代に持っていかなければならない。そのためにはデジタル化にふさわしい新しい市場を作ることが不可欠。そこで、われわれはいろいろと努力して、戦略的にコンペティターも巻き込みながら市場を作り、かつ、お客様がカメラを使いやすい環境をどんどん整えてきた、ということになると思います。

財部:
そういう企業文化は、もともとニコンさんにあったのでしょうか?

苅谷:
当社は、戦前に光学測定器を作っていた方たちが、戦後に民需転換でカメラを作ったわけですが、おそらくカメラのデジタル化の時は、そういうムードだったと思うんですよね。第一号機の「Nikon T型」から始まり、朝鮮戦争の初期からは信頼性の高いカメラといいレンズを作ろうということでやってきたわけですが、それと同じような転換期が、50数年後の今、また訪れたということでしょう。

財部:
やはり会社あるいは組織には、発展期、揺籃期、成熟期、転換期というものがあるということですね。

苅谷:
それはもう、たびたびですよね(笑)。成熟期を迎えて経営的に苦しくなった部分を、再活性化して次の段階に持っていくということが、私の会社生活のすべてでした。カメラ事業もそうでした。ステッパー事業も最近では随分よくなっているんですが、以前「いったい、あなた方は何をやっているんですか」と叫んだことで、私はステッパー部門の立て直しをやったわけです。苦しかったですけど、じつに面白かった(笑)。

財部:
成熟化して厳しくなった事業を建て直していくポイントはどこにあるのですか?

苅谷:
たとえば消費財なら、お客様の「次の楽しみ方」がどう変化していくかです。われわれで言えば「次の画像の楽しみ方」はどうなるか、ということを考えますね。実際、今これだけ激しい勢いでデジタル一眼レフカメラが伸びています。しかし、世界の人口は限られていますから、これも何年か先には成熟化が見えていますよね。「だったら、その後はどうなるんだ」という議論を、すでに社内で始めています。

財部:
ほお。

苅谷:
当然です。我々が市場を作り、引っ張っていくんだという意識が強いわけですから。しかし、それは早すぎてもいけないし、遅すぎてもいけない。「フィルムカメラからデジタル一眼レフカメラに移行していったときと全く同じことが次に起こるぞ」と、私はもう叫んでいますよ。

財部:
事前にいろいろ資料を拝見しまして、そういう先の先を読む経営は、苅谷社長個人の資質による部分が当然あると思うんですが、それとニコンという会社の持っているDNAが重なってくる部分はあるのでしょうか?

苅谷:
あります。たとえば一眼レフカメラはまだまだ売れていますし、南米やロシアとか東欧など、今後売れていくだろうというところはたくさんあります。ところが先進国、とくに日本では市場の飽和状態が見えてきて、「次はいったい何が来るのか」という話になっています。その第一弾として少し顔を出してきているのが、ニコンが始めた『マイピクチャータウン』(デジタルカメラで撮った写真をインターネット経由で保存・共有できる)というネットワークサービスです。「これからネットワークの伝送速度がどういう形で高速化し、パソコンのCPUの演算速度がどう速くなるのか。あるいはメモリが極端に大きくなったら、お客様の楽しみ方はどうなるのだろうか」、という議論を、当然社内でしておりまして、こうした「次の画像の楽しみ方」はニコン側が提供しなければいけないと私は思っています。

財部:
「次の画像の楽しみ方」として、たとえばどういうことを考えていらっしゃいますか。

苅谷:
限られた人々の中での情報の共有化、たとえば「孫の写真を見たい」とおばあちゃんが言っている場合、「おばあちゃん、いつでもここにアクセスして見てね」という環境です。当社ではまた、限られたサークルの中で、写真アルバムを共有するサービスも始めています。われわれとしては入力機器だけではなく、そういったお客様の楽しみ方を追求していきたい。ついこの間までは写真はプリントしていた。しかし、テレビが大型ハイビジョンの時代になって写真をテレビで見るようになると、また楽しみ方が違うわけです。 「お客様にこちらから新しい画像の楽しみ方を提案するぞ」、と社内に言っているわけです。

財部:
今後、デジタルカメラで撮った写真をネットワーク経由でストレージし、共有できるサービスが一般化すれば、デジタルカメラのメモリが全部なくなってしまうという可能性は?

苅谷:
すでに『COOLPIX S610c』などには、無線LAN機能が内蔵されています(カメラ搭載の無線LAN通信機能で、画像保存・共有サイト『マイピクチャータウン』に直接写真をアップロード可能)。

財部:
それはコンパクトカメラですか?

苅谷:
ええ。まずは、コンパクトカメラでそういう調査を始めるんです。お客様に対するご提案ですから、最初は必ずしも売れなくてもいい。われわれはもう2年前から、お客様が無線LANをどのように使われているのかについて、テストを行っています。そして、それがある程度こなれてきた時期を見計らい、プロフェッショナル一眼レフカメラでも無線LANサービスを提供してみたりするわけです。

財部:
なるほど。すみません、存じ上げてなくて。

苅谷:
よその会社では、あまりやってないかもしれません(笑)。要するに、次の動きが重要なんですね。

「窓際」は復活のための充電期間

財部:
苅谷さんが社長になられる直前まで、ニコンには業績的に厳しい時代がありました。いわば苅谷さんは、会社の再建を担って社長になられたということですよね。

苅谷:
デジタルカメラでガンガン伸びてきましてね。それまではステッパー事業、半導体露光装置と液晶露光装置で稼いできて、それが2003年に駄目になりました。そこで私は常務取締役でデジタルカメラの責任者でありながら「いったい、あなた方は何をやっているんですか」と、当時のCEOに叫んじゃったんです。

財部:
ええ、そうですか。CEOに(笑)。

苅谷:
ええ(笑)。CEOはカッと怒ったんですが、すぐに冷静になって「お前、何を考えているんだ。そんなことを言うからには、何か考えがあるんだろう」と言ってくれました。そこで提案書を出して改善点を指摘したところ、一週間ぐらい経った頃に「お前がこれを自分でやってみろ」と言われましてね。私がステッパー部門の精機カンパニー長になったんです。デジタルカメラ部門は後任に譲りまして、私はステッパー事業の建て直しに回った。

財部:
事業の建て直しはどのように進められたのですか。

苅谷:
さまざまな技術的な問題点、開発の手間がかかりすぎるとか、原価が高すぎる原因などを調べて、次から次へと問題を解決していきました。もちろんそれだけではなくて、建て直しのためには、風土改革が一番重要だと思っていました。

財部:
風土改革が、一番難しいですよね。

苅谷:
「会社の体勢を変えよう」というのを大々的にやりましてね、部門を元気にしていったんです。それまで半導体製造装置を作っていた人たちは、おそらく従来のやり方ではもう限界だということを知っていたと思います。でも、上の人たちがずっとそれでやってきたものだから、言い出せなかった。ところがそれを私が平気な顔をして突っついちゃったから。(笑)でも、それで、彼らも動き出せたというのが本当のところでしょう。

財部:
そうなんですか。

苅谷:
その時、デジタルカメラ部門がもの凄い勢いで伸びてきているのに、「俺たちは赤字じゃあ仕方ない」、という感じだったと思うんです。なにしろボーナスの額がぜんぜん違うんですから。「一緒になってやろうよ」と話したら、皆が一気に元気になりましてね。

財部:
私の経験で言うと、たとえばパナソニックの中村邦夫会長が「風土を変える」と言って、組織から人事から随分変えましてね。もの凄く変わった部分があるのも事実なんです。それは、苅谷さんのお話の中で言うと「事実とマーケティングをつなぐ」という部分であり、たぶん中村さんが一番目指したものがそれでしょう。組織を大きく変えて、マーケティング本部を大阪から東京に全部持ってきて、そこに予算をつけて製品をすべて買い取りにした。同時に、設計部門などに対して、営業部門がものを言えるようにした。そのように、マーケットに一番近い人間たちが、開発・設計にものを言える仕組みを作ったというのは素晴らしかったわけです。しかし本当のこというと、松下電器の風土は全然変わってない。変わったと思ったんですが、やはりしばらくすると「ああ、松下だな」、と(笑)。

苅谷:
ウチも変わってないかもしれない(笑)。ニコンという会社はおそらく、外から見える景色と内側から見える景色が違うんです。考えてもみてください、当時の私の立場でCEOに向かって、クビ覚悟で言っているんです、本人としては。

財部:
ええ。

苅谷:
もし本当にお堅い会社だったら、「おい、そんなに文句があるんだったら自分でやってみろ」と(CEOが)言わないですよね。そういう、かなりモノを言いやすい風土がニコンの中に、本質的にあったんだと思いますね。私もたびたび話していますが、ニコンでは社員が「窓際」に寄るたびに、誰かが必ず見てくれていて、しばらく経つと「アイツはうるさいけれど、言ったことはきちんとやる」などと言って、必ず救い出してくれる。あるいは、もっと上の人が「お前なら、アイツを使いこなせるだろう。やらせてみろ」とか言ってくれたりするんです。だから当社では、本当に窓際に放り出されてしまうわけでは決してないんです。充電期間なんです。これは非常に面白い、ウチの会社の良さであると思っていますよ。

財部:
やはり、サラリーマン人生は日向ばかりではないですからね。 苅谷さんご自身、「左遷されている時は、まさに学ぶ時だ」とおっしゃられています。いったい、苅谷さんが不遇の時に何をどのように学び、その結果どうなったのかをお話ししていただきたいと思って、今日は伺ったのですが――。

苅谷:
昔、私は本当に「窓際」になり、総務部の隅っこに机をもらったんですが、その時仕事はまったくなかったんです。ところが当時、ステッパーのレンズに問題が起きていることが、私にはわかっていた。そこで、これを解決してみる価値がありそうだからやってみよう、と思ったわけです。実際に私が何をやったかというと、会社のレポートを全部調べて、それに関する光学、材料関連の論文を、原本にまで遡って片端から読み、「これでいけるだろう」という見当をつけたんです。

財部:
誰にも頼まれてもいないのに、ですよね(笑)。

苅谷:
そう、そう(笑)。「うるさいから、やらせてみようか」ということになって、結局1週間ぐらいで、あれよあれよという間に問題が解決しました。これは今まで話したことがないことですが、その時非常に面白かったのはですね、工場をいろいろと歩き回る中で、「こういう問題が起きているな」ということを、ゴミ捨て場で知ったんです。そこには検査で不良になった機器や部品が捨てられているのですが、それを丹念に見ていくことで「これが不良になっているのか、これが問題か」ということがわかるわけです。当然、ラインから外れていたので、私のところにはレポートがこないですからね。そういうことまでやりましたよ(笑)。でも考えてみたら、私の人生はすべてそういうことの繰り返しだったような気がします。頼まれもしないのに、自分から叫んでやってしまったという――。

財部:
そういうモチベーションは、一体どこから湧いてくるのでしょう?

苅谷:
技術的な興味ですね。「自分なら解決できるかもしれない」という信念が、材料の問題、技術の問題、最終的には経営の問題にまで広がっていったということでしょう。